鎌倉時代に小山田有重が築城したという。
小山田氏は鎌倉時代に没落し、室町中期の頃は扇谷上杉氏の属城となった。
その後、扇谷上杉氏と古河公方の争いに巻き込まれた。
現在、大泉寺の境内および裏山が城址と云われている。
裏山の北西側は薮化しているが、鞍部(右画像)から、
曲輪があり、曲輪内には薮ではっきりしないが土塁、さらに南西斜面に腰曲輪が
残っている。
詳らかな歴史は分らない。ニュータウン開発に伴い、姿を消した。
当時は、山頂に本丸1つを配する簡単な構造ながら、
土塁、堀切、虎口が残っていたという。
鎌倉末期から室町初期の頃に築城されたと推測されている。
津戸氏が城主であった可能性があるという。
現在、本丸は個人宅で入れないが、周辺は公園化されていて、
それでも十分に遺構を見られる。
東側に堀となっている深い谷があり、南斜面は段丘面となっていて崖で、
北と西には空堀が掘られている。
また堀の内側をそのまま土塁で囲んでいる。
曲輪内には井戸の跡もある。
日奉氏の系統と云われる立河氏が鎌倉時代頃に築城か。
屋敷があったのは確かだが、立河氏との確証はないらしい。
室町初期まで立河氏で、その後、扇谷上杉氏家臣、平氏の領地となった。
平氏は河越合戦で北条氏康に敗れ討ち死にし滅亡した。
その後、北条氏の領地となり、再び立河氏が文献に登場している。
が、天正18年の北条氏の滅亡と共に普済寺は焼き払われ、
元禄4年(1691)に寺が復興した。
現在、境内の南東側に土塁が残っている。北西側の土塁は、
墓地となってはっきりしなくなっていた。
南側には残堀川が境内から10mくらい下を流れている。
三田氏の氏宗・政定親子の頃の居城であったが、
永禄6年(1563)滝山城主北条氏照により、
三田綱秀は辛垣城で滅亡した。
城址は妙光院と光明寺の裏手にあり、広い曲輪3つで構成されている。
東の曲輪は墓地となっていて残念だが、
妙光院から上がると、土橋が薮化しながらも残っている。
東の曲輪と中央に位置する曲輪は堀切で断ち切られている。
中央の曲輪の南側には内枡形の虎口がある。
また北西の曲輪は、西側に空堀と土塁(左端画像)で囲まれている。
この西側の遺構の残存状況は良い。
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