武蔵七党の1つ西党日奉氏の庶流長沼氏の居城とされるが確証がないとのこと。
現在は見ての通り、何も残っていない。
小山田城主小山田氏の支城といわれる。小山田氏衰退の後、
扇谷上杉氏の支城となったが、
最終的には北条氏の支城となったようである。
現在、本丸跡には祠があり、土塁を一部残した平坦地がある。
尾根上にさらに曲輪は展開し、堀切などで断ち切ってある。
また東側には小町井戸がある。
小野路宿を通る街道を押える役目か。
詳らかな歴史は分らない。三田氏もしくは北条氏関係の物か。
将門馬場から西へ少し行った、標高1523mにある。
堀切らしい物が2箇所あり(左端画像)、さらに本丸らしい小高い山の南側には、
円形の土塁とそれに沿った空堀らしい平坦地が残る(右端画像)。
三ノ木戸山へ登る麓にも同様の土塁と空堀のような物が残っている。
こちらは城郭大系で「城」と表記される場所の近くであるが、
城山とも明確な城址とは云えない。
北条氏照の書状から、後北条氏の支城であったと推定されている。
天正18年(1590)の秀吉の北条征伐の前に自焼したらしく、
落城は伝わらないとか。
城址のほとんどは個人宅および敷地内で、
本丸跡とされる七面堂付近のみ、「団体」「テレビ関係者」以外は、
入れることになっている。
城址マニアの入って行きたくなる所は尽く進入禁止の札があり、
こちらの気持ちを見透かされた感が残るが、致し方ない。
七面堂が最高地点でその北側に本丸と推定される曲輪がある。
この曲輪と空堀を挟んで西側にIII曲輪がある(中央画像)。
この曲輪の西側には土塁があり、当時の物か分らないが、
内枡形の虎口が北側に開いている。
III曲輪の北側にあるIV曲輪は今は畑or果樹園となっているが、
南側にはうっすらと空堀の跡が残っている。
城域は、高蔵寺があるラインまでだったようで
よくも現在まで都内で残っていたなと感心するくらいである。
大石信重の頃、現在の陣馬街道を押さえる目的で築城されたと推測される。
その後、北条氏照時代にも八王子城の支城として利用されたとも推測される。
現在は、浄福寺の脇から登り道があり、本丸へ通じている。
尾根上に曲輪が幾つかあり、本丸へ至る。
本丸は腰曲輪を伴った構造をしている(左画像)。
その東の尾根伝いにも堀切が3条(4条にも見える)あり(右画像)、
城址として構造上発達してはないが、最低限は備えた城であったようだ。
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