文明8年(1476)長尾景春の乱の長尾景春方に属いた豊島泰経が、
太田道灌に武蔵平塚城を落とされ、ここに籠った。
しかし、亀之甲山に陣城を築いた太田道灌に攻められ落城した。
その後は、後北条氏の重要な支城の1つとなり、
笠原氏が小机衆を支配し城代であったが、
その後、幻庵の子、三郎が城主となり、
三郎没後には氏康の弟?左衛門佐氏尭が城主となった。
現在は、市民の森となり、西側を第三京浜に破壊されているが、
遺構はよく残っている。
基本的な曲輪は東西の2つからなり、どちらが本丸なのかはっきりしない。
西側の曲輪は後北条流の築城でできており、
巨大な空堀で囲まれ(西側は破壊で不明)、
南面と東面に虎口があり土橋で外と繋がる。
西の曲輪から東へ1つ曲輪を経て、東の曲輪となる。
東の曲輪の西部には櫓台と伝わる部分がある。
城郭大系にもあるようにこちらは後北条氏統治以前の形を残しているように見える。
鎌倉時代後期に三浦氏により築城されたと推定されている。
明応3年(1494)三浦時高が養子とした義同と対立し、義同の夜討ちで新井城は落城し、
時高と高教親子は滅亡した。永正8年(1511)長男の義意を新井城、
義同(道寸)は岡崎城に入った。永正9年(1512)北条早雲が岡崎城を落城させ、
三浦親子は新井城に籠った。早雲は一気に攻め落とせないと知るや、
玉縄城を築城し、援軍を断ち切った。
永正13年(1516)三浦道寸親子は北条早雲の前に3年間もちこたえたが、落城した。
(大系より)
現在は東京大学の研究所となっているが、遊歩道が周囲にあり、
土塁と空堀らしい跡は確認できる。
道寸親子の墓が二の丸跡の海に突き出た所にある。
有名な小田原城。1590年北条氏政のとき、豊臣秀吉らに囲まれ、遂に屈っする。
現在は何故か天守閣の前に動物園があり、象達がいる。
後北条時代には障子堀があった。
秀吉が小田原城に対して作った、秀吉のオハコである一夜城。天守閣も 築いており規模が大きかったことが後世でも分る。
室町時代に大森頼春が築城し、約100年間大森氏の持ち城であったという。
その後、北条早雲に小田原城を落とされた時に、ここも落城した。
現在は、リサクルセンターや住宅の狭間に碑が存在する程度しか残らない。
しかし、西から東にかけての丘陵を利用した城であったことは確認できる。
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