吉良頼康により世田谷城の出城として築城された。
吉良氏家臣大平左馬の居城。
浄真寺の境内となっているが、それを囲繞する土塁は比較的よく残っている。
大手門が駅前の派出所辺りにあったとか。
天文6年(1537)扇谷上杉朝定が、江戸城を北条氏綱に奪われたために、難波田弾正に築城させた。
現在は神代水生植物園の敷地内となっていて、開園時間に注意したい(9:30〜16:00。月曜休み)。
主郭の周りに櫓台を伴う土塁があり、土橋、空堀(画像中央)も残っている。
また、その外の曲輪の土塁や虎口(右端画像)、礎石(埋められている)も残っている。
鎌倉時代末期、新田義貞軍を迎え撃つ鎌倉方の居城であったが、落城した。
現在、ハイキングコースの一部となっているが、曲輪(画像中央)や堀切(画像左端)など良好に残っている。
一部竪堀らしき跡もあった。
滝山城主の大石定久の居館跡。定久はその後北条氏照に家を譲っている。 現在は永林寺となっており、墓地の裏手の台地に城址の石碑が立っている。 裏の山に登ってみたが、遺構はなかった。 ただ、この永林寺自体が東西北に山に囲まれていて比較的防御性に優れているよ うに感じた。
大石信濃守(宗虎)の屋敷跡と伝わるが、大石氏の存在時代から謎が多く、定かで
ない。
日本城郭大系によれば土塁跡があるように記載されてあるが、よく分らなかった。
大栗川の南側の台地の上にあり、 現在は住宅地と農園となっている。
遺構はよく分らない。
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