小川土佐守の館跡として伝わる。(大系より)
現在は、秋川の崖状の上にあり、宝清寺となっており遺構は残っていない。
南東側もかつては堀だったようだが、今は道路となっているようである。
館主は不明だが、大石氏か、後北条氏関連と推測されている。(大系より)
南側に秋川を臨む、法林寺の境内の北側に土塁が残る。
対岸は高月城や
戸吹城となる。
後北条氏家臣の太田新六郎が葛西郷のうち長島・高城に2貫文の役高を有していた。
清光寺を中心に正円寺、香取神社辺りまでが城域であったと推測されている。
(大系より)
遺構は特に残っていないが、町並みは古く、すぐ東側は旧江戸川で、今も寺社が多く残っている。
長島高城は、長島・高城なのか、長島高・城なのか、すっきりしない。
永禄6年(1563)に三田氏が滅亡する時期からさほどさかのぼらない時期に三田綱秀により築城されたと推測されている。
永禄6年3月頃に北条氏照に攻められ落城した。(大系より)
一方、昭和44年(1969)の発掘調査では、山頂から青磁、染付、黄瀬戸、天目、酒沸かし用の小鍋、古銭が出ており、
急造でなく長い期間使われたと推測されている。(「多摩丘陵の古城址」より)
江戸時代に頂上周辺は石灰石採掘が始まり、明治以降も採掘され、主郭の遺構はよく分らない状態になっている(中央画像)。
西側の雷電山への下り道には堀切が良く残っている(右端画像)。
また東側の名郷峠付近から雰囲気が良く残っており、尾根には郭らしい狭い削平地が数段残っている。
主郭南側に現在ハイキングコースがあるが、その南側にも平坦地が残っている。
築城者や時期の詳細が分かっていない。
「多摩丘陵の古城址」によれば、北条氏が辛垣城を攻めるために築城したと推測している。
最高所の主郭(左端画像)を中心に細長く伸びる尾根上に展開し、
辛垣城側の北側は尾根道を細く削っており(中央画像)、堀切などあるのに対し、
麓へ続く南側は堀切が1本だけで無防備に近い(右端画像)。
麓からの登山道など比較的整備されていたが、南側の枡形は伐採した木々で埋まっていた。
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