唐沢山城主佐野信吉が慶長7年(1602)ここにあった惣宗寺(佐野厄除大師)を移転させ、
築城と町割りを開始した。
慶長12年(1607)に唐沢山城を廃し、ここに移った。
慶長19年(1614)大久保長安の事件に連座し、所領没収され、廃城となった。(大系・現地案内板より)
JR両毛線佐野駅のすぐ北側に位置する。公園化されてしまい、やや実感に欠ける。
北から、北出丸、本丸、二の丸、三の丸という連郭式で、
それぞれ空堀で区切られている。
本丸の東側で石畳と石垣の遺構が発掘されたらしく、埋め戻されてはいるが、
出土した石を並べて通路を再現している(最右画像)。
天喜年間(1053〜58)に藤原秀郷の6世の孫、淵名(足利)成行が築城したと伝わるが、
実際は、永正9年(1512)以降に足利荘代官長尾景長の頃に築城したと考えられている。
天正18年(1590)6代長尾顕長は北条方に組したために転封となり、廃城となった。(大系・関東の名城を歩くより)
両崖山の山頂周辺に遺構が残る。
本曲輪を最高点に、北、南東、南西斜面へそれぞれ堀切を数条備え、曲輪が尾根上に展開される。
本城1丁目から登山道を登り、南東斜面の曲輪に至る。
岩盤を削った堀切があり(最左画像)、本曲輪と反対側の先端部は展望台になっている。
本曲輪の直下には鳥居と祠がある(左2画像)。
本曲輪の北への尾根へも深い堀切が1条あり(左3画像)、
その先にも2条浅くなった堀切が残る(左4画像)。
本曲輪の北斜面には石塁が残っている(左5画像)。
一方、本曲輪のすぐ西の曲輪との間にも深い堀切があり(最右画像)、
その先の南西に伸びる尾根上にも曲輪や堀切があったようだが、
時間がない焦りでないものと判断し見逃してしまったのが悔やまれる。
平安末期から鎌倉初期にかけて、源姓足利氏2代の義兼が居館として築いた。
建久7年(1196)持仏堂を設け、
その後、3代義氏の時に鑁阿寺として寺院となった。(大系・関東の名城を歩くより)
水掘と土塁によって囲まれた方形館である。
境内には本堂など寺院建物を除けば遺構らしいものはなかった。
足利氏の家臣柳田伊豆守が応永22年(1415)に築城したということが、
当城のすぐ北西に位置する、伊豆守夫妻の層塔のある宝福寺の宝福寺寺伝にあるという。(現地案内板より)
土塁は北西部(左2画像)、北東部(左3画像)によく残っている。東部の角部は隅櫓の跡であるらしい。
そこから南西方向には側溝があり土塁はかなり削られ、途中から消滅していた(最右画像)。
少なくとも元亀年間(1570〜1573)には宇都宮氏家臣が城主であったようであるが、
宇都宮国綱が天正4年(1576)に築城したという。
宇都宮家中は北条か反北条で割れ、宇都宮氏は国綱の伯父である佐竹義重と反北条をとり、
天正13年(1585)に北条氏の圧力から、
宇都宮城からここに本拠を移した。
天正18年(1590)北条氏の滅亡後、宇都宮城に戻った。(『関東の名城を歩く 北関東編』より)
縄張り図を見るとかなりの大規模な城であったようであるが、
案内板もなく、ほとんど整備されておらず、藪が多かった。
多気山の東南西部に横堀が走っているようであるが、
林道と交差している箇所しか確認しておらず、もったいないことをした。
最左画像のように土塁と空堀が残っている。
林道東多気線をひたす行くと、登山道があり、
そこを登るとすぐに数段からなる曲輪があり(左2画像)、
そこを登りきると主郭の一歩手前のやや広めの曲輪があり木が伐採されていた(左3画像)。
主郭には多気城跡という石碑と屋根付きのベンチがある。
北側を土塁で囲んでおり(左4画像)、さらに先には北側の曲輪と堀切で区切っている。
主郭の西側に枡形状の虎口がある(左5画像)。
そこを出て、南に向きを転じると、平虎口があり、道は坂を下る。
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