藤原秀郷の子孫、小山政光により平安末期に築城したと云われるが定かでない。
以後、小山氏の属城であったが、康暦2年(1380)小山義政と宇都宮基綱の争いから、
義政は鎌倉公方足利氏満に叛旗を翻し、2度降伏し3度挙兵したが、
義政は自害し、嫡子若犬丸もその後会津で自害し、小山氏は滅亡した。
それ以後、同族の結城氏が小山氏を嗣ぎ、北条氏に従い、
天正18年(1590)追放された。
その後、本多正純が慶長12年(1607)頃に3万石余で城主となり、
元和5年(1619)宇都宮城主となって転封した際に廃城となった。
北条氏に属した時に深く掘られた、空堀がよく残り、
曲輪の規模も大きい。城山公園である二の丸跡には土塁(左3画像)も残っている。
東軍が上杉征伐に向う途中、ここ小山で、
待っていた三成挙兵の報せが入った。家康を中心に評定が行われ、
引き返すことになった。
将軍家の日光社参の休憩・宿泊所として小山御殿が建てられた。
将軍家の日光社参も財政難で中絶し、
天和2年(1682)古河藩により解体された。
現在、その跡なのか、石材などが残っている(左4画像)。
小山義政の時本城であった。
西側には思川が流れ断崖となっており、南側には5m以上の土塁が今も残っている。
すぐ北側にある、
長福寺城跡を探して案内標識に従ったが、石碑があるとは思わなかった。
土塁か曲輪かそれらしき所には辿り着いたのだが。
永享9年(1437)長沼秀光が築城した説と、
皆川広照が天正18年(1590)に皆川城を秀吉に落城させられ、築城した説がある。
ともかく慶長14年(1609)に廃城となった。
現在は、かつての堀の跡と土塁の跡があるだけである。
藤原道兼を祖とする宇都宮宗円に続く宇都宮氏の本城。
宇都宮城を巡る攻防は続き、結局慶長2年(1597)宇都宮国綱は秀吉により改易となり、
江戸時代に入り、浅野長政、蒲生秀行、奥平氏そして本多正純となった。
本多正純については宇都宮釣天井説などで有名で、改易となった。
その後、松平、阿部、戸田と続き明治維新を迎えた。
宇都宮は日光への参拝路としても重要であった。
本多正純の頃には、三日月堀も備える程の防備であったようだが、
現在は都市化され、最近宇都宮城再建計画でかなり近代的な城址と生まれ変わるようである。
清原氏が下野国芳賀郡に配流され芳賀氏と改姓した。
その後、宇都宮氏の家臣となった。
飛山城は南北朝の頃、芳賀氏により築城されたとされる。
(鎌倉時代に芳賀高俊により築城されたという説もある。)
南北朝の頃は北朝方として活躍した。
天文年間(1532〜1555)にはそれまで紐帯関係にあった宇都宮氏と争うようになり、
結局、宇都宮氏の紛争を秀吉に咎められて宇都宮氏の領地は没収となり、
飛山城も廃城となった。
現在、飛山城は宇都宮市により史跡公園として、
これ以上ないくらいに整備されている。空堀や土橋、さらに木橋、
門などが再現されて、掘立柱建物も復元されている。
ともかく、当時の姿により近付けようとしてある見本となる城址公園であろう。
また平城の教科書のような公園でもある。
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