寛正3年(1462)壬生筑後守胤業により築城された。
2代綱重の時に現在の位置に移った。
4代綱雄が天正4年(1576)に叔父の徳節斎周長に暗殺されるも、
子義雄がこれを討ち、鹿沼城を拠点とし、城代がおかれた。
天正18年(1590)小田原に皆川広照らと馳せ参じ、その後自害し、壬生氏は滅亡した。
その後、目まぐるしく城主は変わり、
正徳2年(1712)から鳥居伊賀守忠英が3万石で入り、幕末まで鳥居家が続いた。
(大系より)
現在城址公園となっているが、
昭和26年(1951)に中学校が建設されに伴い、破壊されてしまったようである。
現在は、本丸南側の、土塁と水掘と虎口の跡が残るのみである。
寛喜年間(1229〜1231)に皆川四郎左衛門尉宗員が白山台に居館を築いた。
その後皆川(長沼)秀宗が築城した。
戦国期には宇都宮氏に従っていたが、
上杉氏と北条氏の抗争に巻き込まれ、
最終的に天正14年(1586)5月、皆川広照は北条氏に服属し、
小田原城に籠城したが、秀吉に降伏した。
一方皆川城は城主不在で、4月7日または8日に上杉景勝・浅野長吉に落城された。
その後、皆川氏は栃木城を築城、廃城になった。
(『関東の名城を歩く 北関東編』および現地説明版より)
法螺貝城と呼ばれるように、山頂部にある主郭を中心に、帯曲輪が何段にも続いている。
南西部には竪堀もよく残っている(最左画像)。
主郭の背面は鬱蒼とした森になっているが、
虎口があり(左2画像)、横堀がある。
麓には東西に虎口があり、東虎口は通行止めされており確認できなかったが、
西虎口は、残っており、出るとすぐに空堀がある(左3画像)。
現在公民館となっている南側が居館跡で西側に土塁が残っている(右2画像)。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。