正治・建仁年間(1199〜1204)宇都宮業綱の子・塩谷朝業
(源実朝と歌を通じて親しい)により築城された。
現在は城址公園となり整備されている。
特徴として、本丸とそれをCの字に囲む二の丸などの帯曲輪との間に、
幅の広い空堀がある(左1、2画像)。
二の丸から北に続く、三の丸には堀切がある(右端画像)。
すぐ横を走る東北自動車道により削られて消滅した部分もあるようだが、
三の丸からさらに北に曲輪が続く(確認せず)。
一方、東側は宮川が流れ、南側も崖となり小川があった。
西側には根小屋と字が残っていることからして屋敷があったのだろう。
正和4年(1315)塩谷頼安の築城と伝わるが正確でない。
その後塩谷氏は教綱の時、本家宇都宮氏の後継が気に入らず叛旗を翻し、
結局謀殺され滅亡した。
宇都宮氏により再興された塩谷氏も秀吉により追放となり、
その時廃城となったと推測されている。
現在は工場団地となり本丸跡のみゲートボール場となって残っている。
本丸の周囲360°、土塁と空堀が囲繞している。
内部にも土塁が残り、中央に井戸跡と麻疹地蔵がある。
完全フラットな地であるから、
当時は、水堀などを巡らした城だったのでないだろうか。
天文14年(1545)に大田原資清によって築城された。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いの前に、徳川家康の命により、
補修した。また、寛永4年(1627)徳川家光の命により、
奥州に備え、常時玄米を千石備蓄させた。
文政8年(1825)火災により焼失したが、新たに造営された。
戊辰の役で、西軍の拠点地となったために、
東軍の攻撃を受けたが、火薬庫の爆発によって落城は免れた。
明治維新まで大田原氏が続いた。
(現地案内板より)
現在は龍城公園となっている。
蛇尾川のすぐ右岸に位置し、城址の東側はすぐ川に面し、崖状となっている。
本丸は、2〜3mの土塁によって囲まれ、北西部に裏門(左3画像)、南側に二の丸へ続く、
台門跡に唯一の石垣が残る(左2画像)。
二の丸へは土橋となっており、両サイドは空堀となっている(左4画像)。
二の丸の南側には、稲荷のある曲輪となっている(右端画像)。
本丸の北側には曲輪があり、本丸からの比高は10mくらいある(左端画像)。
二の丸から西側に下って、北曲輪と裏門からの合流した所に、
大手門だったであろう、坂下門跡が残り(下画像)、その外側に水堀の跡である、
三日月堀が今も部分的に残っている。
藤原秀郷が天慶3年(940)から築城、同5年に落成したといわれる。
その後、足利信綱の弟成俊が佐野荘司そ称し居城としたという。
戦国時代に、佐野小太郎盛綱が修築した。
上杉政虎に永禄4年(1561)12月攻められ、以後、執拗に
同5年2月、同6年2月、同7年2月、11月、同9年2月、同10年2月、閏10月、
同13年2月、天正2年11月の計10回攻められた。
天正6年に上杉謙信死後は、後北条氏と戦う佐竹氏に結び、
同9年北条氏照に攻められたが退けた。
が、佐野宗綱は、天正13年正月、長尾顕長の足利に攻め入ろうと須花坂を越えた所で、
鉄砲に当たり討ち死にした。
その後は北条氏忠が養子に入り、城代として大貫越中守らを置いたという。
宗綱の弟、天徳寺了伯は秀吉に従い、小田原征伐に功があり、
唐沢城の大貫氏を討ち、佐野房綱と名乗り、唐沢山城に返り咲いた。
房綱は秀吉家臣の富田左近将監の次男信種に家督を譲り、信吉と名乗った。
慶長7年(1602)佐野春日岡に移転を命ぜられ、春日城(佐野城)に移った。
(大系より)
麓から車道を登り少し行った所に関東ふれあいの道がありそこから登ると、
御台所の境界に南側の斜面にV字の空堀と土塁がある(左1,2画像)。
また田沼高校の東側に和泉屋敷と隼人屋敷の間に空堀が残っている(最右画像)。
関東ふれあいの道を登り切った所が土櫓で、駐車場の先に枡形がある(上段最左画像)。 大炊井と呼ばれる井戸があり(上段左2画像)、その先に四つ目堀と呼ばれる空堀がある(上段左3画像)。 橋を渡った先に三つ目堀がある(上段左4画像)。 道は南城に至る。北側に階段を登った先が唐沢神社の鎮座する本丸となる。 本丸の周囲は石垣である。 北側にも石垣の枡形があり(下段左2画像)、 曲輪は北東の尾根上に、長門丸、金の丸、杉曲輪、北城と空堀を挟んで続く。 さらにキャンプ場の先の下り斜面にも空堀(下段左4画像)や石塁が残っている(下段最右画像)。
佐野太郎基綱の子、国綱が安貞2年(1228)に築城したといわれる。
「下野国誌」によれば、この国綱が佐野一族の岩崎越前守義基のために築城したものともいう。
永正年間(1504〜21)義基12代の子孫岩崎左馬助重長が三好岩崎に移り、その後佐野左近将監季綱の居城となった。
案内板によれば大永元年(1521)佐野秀綱の居城になったという。
家臣の田沼、中江川、河田、天沼、今宮氏が交代で守備し、その後山田若狭守が城代として長く居城したという。
慶長19年(1614)佐野氏改易とともに廃城となった。
その後、寛永12年(1635)田之入から興聖寺が移り、今に至る。
(大系・現地案内板より)
県道16号線側は堀の跡は良く分らないが、南側と門のある東側には、土塁と堀の跡が残っている(最右画像)。
興聖寺境内には遺構らしいものはなかった。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。