南北朝の頃に今川氏一族の蒲原氏により築城されたと推定されている。
天文4年(1535)頃には蒲原氏憲が城代となっていたが、
永禄3年(1560)桶狭間で氏憲も討ち死にし、
今川氏の衰退により、北条氏が支援のために入り、
蒲原城には布施佐渡守康則が入った。
永禄12年(1569)に武田信玄が侵入し、勝頼と信豊により、
落城させた。
天正10年(1582)3月4日徳川軍に攻められ落城した。
天正18年(1590)以降廃城になったと考えられている。
現在は大手曲輪は東名自動車道により消滅したようで、
搦め手から登り口があり、
最高点の一の曲輪と、大堀切を挟んだ善福寺曲輪を中心によく遺構が残っている。
善福寺曲輪には、櫓や逆茂木、土塁など再現されている。
一方、一の曲輪は完全な平坦でなくぼこぼこしており、
海の方へさらに曲輪が続いている。
永禄11年(1568)駿河に侵入した武田信玄に対し、
東から北条軍が薩た山に陣を布いたので、
翌年馬場美濃守信房の縄張りにより築城した。
天正3年(1575)長篠の戦いで敗戦後、
穴山梅雪が入城し、強固に改修した。
天正10年(1582)徳川家康の前に開城した。
天正18年(1590)以降は中村氏の持城となり、
慶長6年(1601)に廃城となった。
穴山時代の遺構が残っていたようであるが、
市街地化に伴い現在では地名しか残っていない。
旧三の丸という小芝神社(左画像)に案内板がある。
明応年間(1492〜1501)頃今川氏の遠江侵攻の際に築城したと推定される。
久野宗隆が城主となり、桶狭間で討ち死にした元宗、元宗の弟宗能と続き、
天正18年(1590)に秀吉の武将松下之綱が入った。
その長男重綱が跡を嗣ぎ、関ケ原以後も安堵されたが、
慶長8年(1603)幕府の許可なく石垣を築き、転封となった。
その後、廃藩となり、旗本として久野宗能が旧地に戻った。
元和5年(1619)宗成の時に紀伊和歌山藩重臣となり、
下野富田から北条氏重が入封し、寛永17年(1640)関宿に転封となり、
廃城となった。(現地案内板と大系による)
現在は平山城である当城の遺構はよく残っている。
曲輪や堀切、土塁など残り、その周囲は田んぼで当時は湿地だったようである。
天正3年(1575)眼前の二俣城
攻めのために、当城と蜷原砦・和田ヶ島砦(天竜川対岸)
・毘沙門砦(二俣川対岸)を家康が築城させた。
二俣城攻めの本陣が置かれ、大久保忠世が入った。
6ヶ月の籠城の末に城主依田信蕃は開城の勧告を受け入れ、開城に至った。
その後も二俣城の支城として残っていたようで、
堀尾時代に居住・政治空間として利用されていたと推測されている。
現在は鳥羽山公園となり、土塁に囲まれた本丸(中央画像)と、
石垣を伴った外枡形門、二の丸、櫓台(右画像)などが残っている。
また、見逃してしまったが、枯山水の遺構も残っている。
(現地案内板、大系、戦国の堅城より)
永禄11年(1568)に地元の人々らが、
徳川軍の侵攻の前に立て籠ったが、あえなく落城した。
当時は、姫街道がこの周囲を走っており、重要な位置にあった。
現在は、竹林と化した本曲輪と、
堀切を挟んで神社の立つ曲輪からなる小規模な城址である。
本曲輪には犬走りのような腰曲輪が残り、少し下った所に、
井戸(現在も3mくらい)も残っている(右画像)。
(現地案内板、城巡りハイキングより)
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。