永禄11年(1568)徳川軍の侵攻の前に地元の土豪達が築城し、
付近の農民ら2500人と立て籠ったが、
刑部城の落城した後、
翌12年3月27日に落城し、9月9日に捕虜700人が斬殺されたという。
この戦いで、大久保甚十郎(忠栄)や平井甚五郎が討ち死にしている。
現在、遺構は全く残っておらず、石碑と首塚が残るだけである。
潮が満ちると舟でしか寄せられず、また引いても出口が1つであったらしい。
(現地案内板、三河物語、大系、城めぐりハイキングより)
天正11年(1583)家康の命で、
本多百助信勝(=信俊?)と上村庄右衛門が奉行となって築城した。
猪鼻湖に突き出た突端に位置し、
現在はみかん園となり、空堀が残る(右画像)。
みかん園の中に櫓台のような小山があったのが気になった(左画像)。
貞和4年・正平3年(1348)北朝方に属した浜名清政により築城された。
その後、今川氏に従った。
永禄11年(1568)清政より9代後の肥前守頼広の時、
家康軍の前に徹底的に抵抗したが、翌年2月開城に至り、滅亡した。
その後、家康家臣の本多百助信俊(=信勝?)に預けられ、
天正11年(1583)その子信時の時に、
野地城が築城されたために廃城となった。
猪鼻湖に突き出た半島部分が本曲輪で、
土塁と空堀を挟んで馬出しがあり、二の曲輪が残っている。
(現地案内板、大系より)
南朝方の摩訶耶の千頭峯城の前線を守る支城であった。
築城もその頃と推測される。
本城山山頂(135.4m)を中心に平坦地があり本曲輪となっている。
西側は尾根続きとなっているために、
堀切2条で断ってある(左2画像)。
浜名湖に面する東側にも帯曲輪が確認される(最左画像)。
明治初期に石塁などを転用で持ち出されたとのことである。
本曲輪に石塁が残っているが、当時の物かは疑問が残る(左3画像)。
当城より東へ猪鼻瀬戸へ下ると、ピークがあり、
今は崩れているが、祠の跡があり、
それより下(南側)に3段石塁で出来た段がある。
当時の物ではないと想像されるが。
さらに猪鼻瀬戸付近にも土塁と切岸のような跡があり、
当時の物かどうかは怪しいが、他の可能性も感じさせない場所でもあった。
(現地案内板より)
大永4年(1524)今川氏親が遠江と三河の境を監視するために築城した。
長池親能、小原親高、重臣の朝比奈氏が4代に渡り在城した。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、
徳川軍が遠江に侵入し、今橋を開城した大原資良が入ったが、
永禄12年(1569)2月、西遠江が続々と徳川氏に内通し出し、
当城を捨てることになった。
家康は松平家忠を入れ、正太寺鼻に拡張させ、
元亀3年(1572)松平備後守清善を入れた。
現在は、正太寺を挟んで東西に遺構が残る。
元々西側だけであったようで、正太寺から登り切った所が本丸で、
北側に土塁を挟んで曲輪がある。東側は薮化しており定かでないが、
西側は1段下った位置から石塁が曲輪を囲むように連続している(最左画像)。
さらに西側に5、6段下へ石塁を伴った曲輪が続いている(左2、3画像)。
一方、正太寺を挟んだ東の正太寺鼻に位置する遺構は、
開墾されており、遺構は薮化も手伝い確認しづらい。
坂を登ると南北に空堀があり(北側ははっきりしない)、
虎口を入ると北側に道は曲がる。この辺りに数段切岸が確認できる。
さらに東へ行くと櫓台のような土塁が確認できるが(左4画像)、
竹林と化して身動きがとれない。石碑もあるらしいが気配を確認できなかった。
さらに東へ行くと本丸、二の丸跡という畑の跡になっている(最右画像)。
南側は畑や薮と化していて、見て周る気にはなれなかった。
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