駿河・遠江・伊豆5



堤城黒田代官屋敷獅子ヶ鼻砦深沢城長久保城

堤城


菊川市(旧小笠町)【最寄り駅】JR東海道線菊川駅

今川氏家臣松井氏が築城したという。 その後、松井氏は二俣城に今川氏により移され、 その後廃城となったと推測されている。
現在牛淵川の東側に位置し、千畳敷のある山と西側の城山からなる。 城山には祠があり山頂には三角点があり、東側に曲輪が数段ある。 一方、千畳敷のある山は、現在茶畑となっており、 東側には深い堀切がある。千畳敷を中心に数段の曲輪が残っている。
千畳敷にある曲輪には民家裏手から登らねばならず、 要注意。声を掛けて失礼させてもらった。

主郭1 千畳敷 主郭2

黒田代官屋敷


菊川市(旧小笠町)【最寄り駅】JR東海道線菊川駅

永禄年間(1558〜70)に黒田義則により築かれた。 今川・徳川氏に仕えた。その後、旗本本多氏の代官として現在まで当地に居住した。
長屋門は国指定重要文化財となっている。 周囲を水堀に囲まれ、低いながらも土塁らしい跡も残る。

長屋門 水堀

獅子ヶ鼻砦


菊川市(旧小笠町)【最寄り駅】JR東海道線菊川駅

天正7年(1579)春から8年夏までの間、家康の高天神城攻めの際に築かれた。 大須賀康高がいた。
蓮池公園の北側にあり、主郭にはアスレチック施設があるが、 その施設もロープが張られて使用不可となっていた。 主郭において遺構を見出すことは難しいが、 東側に小菊荘から登って来る道があり、堀切らしい場所に出る。 主郭へと階段が続き、その辺りに数段曲輪らしい構造が残っているが(左画像)、 当時の物か定かでない。

曲輪1 曲輪2

深沢城


御殿場市【最寄り駅】JR御殿場線御殿場駅

今川氏により築城されたと推測されている。 桶狭間で義元が討死した後、三国同盟を破棄した武田信玄が駿河に攻め入り、 今川氏真は北条氏を頼り、武田氏と北条氏の最前線となった。 元亀2年(1571)北条綱成が籠る中、武田信玄直々に攻めて包囲し、 矢文で開城を促し、金掘り衆による城攻めもあり、開城した。 その後、武田氏の城となった後、北条氏が攻めた。 武田氏滅亡後は、徳川家康の家臣、三宅康貞が入り、北条氏に備えた。 が、北条氏滅亡後に廃城となった。
武田氏の築城に特徴的な三日月堀が大手に展開されている(右端画像)。 本丸は、馬伏川と抜川の合流点を背に、その前に二の丸、三の丸と展開される。 それぞれの曲輪との間には空堀があり、三の丸横には馬出もある(中央画像)。 サイドを2つの川に囲まれた、防御機能の高い城である。 足柄街道から一直線に大手まで道が繋っており、 屋敷等あったのだろうか。 かつての門が近くの大雲院に残されている(右端画像)。 関東大震災の際に倒壊し、再建された物とのこと。

三日月堀 馬出 大雲院

長久保城


長泉町【最寄り駅】JR御殿場線長泉なめり駅

鎌倉時代に竹下孫八左衛門が築城したと伝わるが定かでない。 その後は、大森氏の同族葛山氏がこの地域を領有していた。
天文年間(1532〜55)に北条氏が今川領に侵入し出したために築かれたらしい。 その後は、北条氏と今川氏の最前線となり、 天文14年に今川義元が大軍で押し寄せ、山内上杉憲政と連携し、 上杉憲政は扇谷上杉朝定と河越城を攻め、北条氏康は形勢不利となった。 甲駿同盟により武田信玄も出て来て、停戦調停し、 長久保城は今川氏に帰することになった。
その後、永禄11年(1568)武田信玄が駿河に侵入した際に、 北条氏の持城となった。 天正2年(1574)頃には武田氏の持城となっている。 その後、天正10年(1582)武田氏滅亡後は徳川家康の持城となり、 天正18年(1590)北条氏滅亡後は駿府城主中村一氏の領する所となり、 慶長5年(1600)転封により廃城になったと考えられている。
現在は、城山神社と道路を挟んだ北側に遺構があるだけで、 開発で消滅している。武田氏時代の遺構が残っていたようである。 城山神社には土塁のような遺構があり(左端画像)、 その北側には深い空堀(中央画像)と土塁(右端画像)が残っている。

城山神社 空堀 土塁

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