今川氏家臣松井氏が築城したという。
その後、松井氏は二俣城に今川氏により移され、
その後廃城となったと推測されている。
現在牛淵川の東側に位置し、千畳敷のある山と西側の城山からなる。
城山には祠があり山頂には三角点があり、東側に曲輪が数段ある。
一方、千畳敷のある山は、現在茶畑となっており、
東側には深い堀切がある。千畳敷を中心に数段の曲輪が残っている。
千畳敷にある曲輪には民家裏手から登らねばならず、
要注意。声を掛けて失礼させてもらった。
永禄年間(1558〜70)に黒田義則により築かれた。
今川・徳川氏に仕えた。その後、旗本本多氏の代官として現在まで当地に居住した。
長屋門は国指定重要文化財となっている。
周囲を水堀に囲まれ、低いながらも土塁らしい跡も残る。
天正7年(1579)春から8年夏までの間、家康の高天神城攻めの際に築かれた。
大須賀康高がいた。
蓮池公園の北側にあり、主郭にはアスレチック施設があるが、
その施設もロープが張られて使用不可となっていた。
主郭において遺構を見出すことは難しいが、
東側に小菊荘から登って来る道があり、堀切らしい場所に出る。
主郭へと階段が続き、その辺りに数段曲輪らしい構造が残っているが(左画像)、
当時の物か定かでない。
今川氏により築城されたと推測されている。
桶狭間で義元が討死した後、三国同盟を破棄した武田信玄が駿河に攻め入り、
今川氏真は北条氏を頼り、武田氏と北条氏の最前線となった。
元亀2年(1571)北条綱成が籠る中、武田信玄直々に攻めて包囲し、
矢文で開城を促し、金掘り衆による城攻めもあり、開城した。
その後、武田氏の城となった後、北条氏が攻めた。
武田氏滅亡後は、徳川家康の家臣、三宅康貞が入り、北条氏に備えた。
が、北条氏滅亡後に廃城となった。
武田氏の築城に特徴的な三日月堀が大手に展開されている(右端画像)。
本丸は、馬伏川と抜川の合流点を背に、その前に二の丸、三の丸と展開される。
それぞれの曲輪との間には空堀があり、三の丸横には馬出もある(中央画像)。
サイドを2つの川に囲まれた、防御機能の高い城である。
足柄街道から一直線に大手まで道が繋っており、
屋敷等あったのだろうか。
かつての門が近くの大雲院に残されている(右端画像)。
関東大震災の際に倒壊し、再建された物とのこと。
鎌倉時代に竹下孫八左衛門が築城したと伝わるが定かでない。
その後は、大森氏の同族葛山氏がこの地域を領有していた。
天文年間(1532〜55)に北条氏が今川領に侵入し出したために築かれたらしい。
その後は、北条氏と今川氏の最前線となり、
天文14年に今川義元が大軍で押し寄せ、山内上杉憲政と連携し、
上杉憲政は扇谷上杉朝定と河越城を攻め、北条氏康は形勢不利となった。
甲駿同盟により武田信玄も出て来て、停戦調停し、
長久保城は今川氏に帰することになった。
その後、永禄11年(1568)武田信玄が駿河に侵入した際に、
北条氏の持城となった。
天正2年(1574)頃には武田氏の持城となっている。
その後、天正10年(1582)武田氏滅亡後は徳川家康の持城となり、
天正18年(1590)北条氏滅亡後は駿府城主中村一氏の領する所となり、
慶長5年(1600)転封により廃城になったと考えられている。
現在は、城山神社と道路を挟んだ北側に遺構があるだけで、
開発で消滅している。武田氏時代の遺構が残っていたようである。
城山神社には土塁のような遺構があり(左端画像)、
その北側には深い空堀(中央画像)と土塁(右端画像)が残っている。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。