藤原道隆の子、伊周を祖とし、その後、大森氏となり、惟兼が葛山に居し、
葛山氏を名乗った。今川氏と友好関係にあり、そのうち今川氏領の国人衆となった。
北条早雲の次男、氏時?(氏広)を養子に迎えている。
氏尭、氏広、氏元と続き、今川氏と北条氏の対立や、
今川氏と武田氏の対立などに翻弄された。
永禄11年(1568)に武田信玄の駿河侵攻の際に武田方に属いたが、
北条氏に葛山城を奪われた。元亀2年(1571)に武田氏と北条氏が和睦したことで、
葛山城は葛山氏に返還されたが、氏元は信玄に切腹させられ、
信玄の六男信貞が名跡を嗣いで葛山氏を乗っ取った。
天正10年(1582)武田氏滅亡とともに廃城となった。
(大系・静岡の山城より)
仙年寺裏の葛山氏墓地から登山道があり、
すぐに東曲輪と本曲輪下の間の堀切に至る(左画像)。
この堀切の東側にも堀切がもう一条あり、二重堀切となっている。
一方、西側も二重堀切となっている(右画像)。
その西側の西曲輪は余り整形されていない。
本曲輪の北側は土塁で囲まれ、その下は薄い腰曲輪で竪堀があるらしいが、
薮っていてよく分らなかった。
一方、本曲輪の南側は広い曲輪で、西側の虎口から西の二重堀切へ下る道がある。
その広い曲輪の下は腰曲輪のようになっているが、横堀だったということである。
鎌倉時代に築城されたと推定される。(現地案内板より)
土塁で囲まれ、東西100m、南北100mで井戸が2つある。
南側を大久保川が流れており、左側に、
葛山氏の四天王の半田氏と荻田氏の屋敷が隣接している。
北西隅土塁の上に祠がある。
御宿監物の居城と推定される。御宿氏は葛山氏と同族であったが、
時の流れとともに武田氏に属するようになった。
天正年間に武田氏と北条氏の間で争うようになって、
街道を抑えるために築城されたと推定されている。
また天正18年(1590)小田原攻めの際に、
徳川氏方の城として改修もされたと推測されている。
(静岡の山城より)
麓に普明寺があり、平時の居館跡と推定される。
東側の墓地の横から道があり、すぐに広い堀に出る。
この堀のような深みは、
徳川時代に改修されたのだろうか、
その後、直角に左に曲がり大手門を抜けるように城内へ入る。
またその深みには石塁で段もあり、
江戸期に築城された城の内枡形の大手口に似ている(左画像)。
東の方は畑となっていたようで、後世に掘削されたのか、
堀切のような道を抜けると、空堀かもしくは後世の農業用の道がある。
北側は薄暗く不気味であるが、横堀が残っている。
徐々に高度を上げていき、本曲輪へ登る道は整備されている。
本曲輪は広いが土塁などははっきりしなかった。
北端に大きな堀切がある。
その堀切の先には、1段薮化した曲輪があり、
その上にやや斜めに傾いた曲輪があり、
北西斜面に2条竪堀が綺麗に残っている(中央画像)。
一方、北東斜面には、深い横堀が曲輪と平行に走っており、
北端の堀切まで繋っている(右画像)。
その堀切の北側にも1条堀切があり、二重堀切となっている。
その北側は東名高速となっていて跡は残っていないのが残念である。
葛山氏によって築城されたと考えられているが、
詳しいことは分っていない。
佐野川の南岸に位置し、北側は崖にようになって切り立っている。
熊野神社から東へ進み尾根に出られる。
西へ尾根を進むと、平場に出て、5mくらいの深さの堀切がある(左画像)。
痩せた道を登り返した、曲輪は薮化している。
登り口があり、窪んだ口があり、本曲輪に入る。
本曲輪は半月状の形をしており、こちらも薮化している。
西側下る道があり、井戸の跡があり、枡形虎口のようになってもいる。
ここを抜けると突端に土塁があり、その先は7〜8mの深い堀切で(右画像)、
その先は遺構らしいものを感じなかった。
土塁の手前に南側に後世の物か、虎口のようになっており、下る道がある。
狩野城を本拠とする狩野氏の支城であったが、
伊勢新九郎長氏が伊豆に侵攻すると、大見三人衆の裏切りにあい、
落城した。明応6年(1497)に奪還のために狩野氏に攻められたが、
大見三人衆の援護により落城を免れた。(大系・静岡の山城より)
天桂寺よりも手前の一宮神社脇から登る。
しばらく行くと、人工的に手を入れたようなエリアとなるが遺構なのか分からない。
さらに登ると、左端画像のように植林された痩せた尾根を通り、
虎口手前に出る。
堀切のある虎口(左2画像)を抜けるとすぐに櫓台状の主郭がある。
西に広がる二郭の南側には土塁が残る。
その先の北東側には1段下がり、三郭がある。
基本的に南側にしか土塁はなく、北側は急斜面で攻められないと思われるが、
伊勢新九郎長氏はこの北斜面から攻め入ったらしく、
この北斜面は「新九郎谷」と呼ばれている。
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