天文年間(1532〜55)に用宗郷を知行する一宮元実が築城したと推測される。
その後、武田氏の領する頃は、向井伊賀守正重が在城し、
天正7年(1579)徳川軍の攻めに遭い、向井正重は討ち死にした。
翌8年に修築し、朝比奈氏秀が城番となったが、
10年に徳川軍に攻められ、武田家の駿河在中の将が甲斐へ逃れ、
それに伴い、氏秀も開け渡し、久能山城へ逃走した。
現在は周囲はみかん園となっており、本丸には観音堂が建っていたようであるが、
その観音堂も跡だけになり遺跡となってしまったようである。
裏手には巨大な堀切があり、脇に井戸の跡も残る。
また空堀を挟んだ反対側の現在みかん園となっている平坦地も、
曲輪であったと思われる。
目の前に駿河湾を臨み、背後に日本坂を控え、重要な拠点であったであろう。
明応2年(1493)頃に築城されたと推測されているが、定かでない。
天文5年(1536)今川氏輝の病没後に家督争いが起き、
後の義元である承菊と争った、恵探に組みした福島、斎藤、篠原勢により押さえ
られた。承菊方の岡部親綱との合戦で、岡部軍により落城された。
その後は廃城となったのか定かでない。
標高230mの山頂から背後の痩せた尾根にかけて、
堀切が数条(画像)、曲輪が残る。
山頂には経塚、さらに下った所には狼煙台の跡と云われる巨石が転がっている。
天文6年(1537)に関口氏録により築城されたと推測されている。
永禄13年(1570)武田勢に攻められ、城主大原資義は14日間の攻防の末に開城した。
現在は農園となっている。本丸には社があるが、滅多に人も来ないようで、
草の生えるままに荒れている(最左画像)。
東側にある二の丸との間に堀切が残る(中央画像)。
また、西側には曲輪が尾根上に数段残っており、虎口らしい跡も残っていた。
「花沢城」の標識から舗装路を終点近くまで行き、
裏手から比較的明瞭な踏み跡があり、そこを上ると曲輪を経て、本丸に到達する。
文明5年(1473)頃今川家の客将・伊勢新九郎長氏(盛時)が築城したと推測されている。
その後、今川義忠が不慮の死で家督争いが起き、
氏親が家督を継ぐと、新九郎は興国寺へ移った。
その後、廃城となったと推測されている。
現在、柑橘系の農園および、大日堂、神社が建っている。
大日堂の横に竹林となっている腰曲輪らしい平坦地が残っている(左画像)。
平安末期、狩野氏2代の維職か3代維次の頃築城したと推定されている。
明応2年(1493)道一の頃、足利方に属していたので北条早雲に攻められ、
明応7年(1498)開城に至った。(現地案内板より)
狩野川の左岸に位置し、空堀、二重堀、多数の郭が残る。
最終的な形式は北条氏による物のようであるが、
時代時代で改修されているということである。
現在は公園化され、整備されているが、
標識の立っている位置に多少誤りがあった。
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