駿河・遠江・伊豆9



宇佐美城伊東氏館小長谷城生土城丸子城

宇佐美城


伊東市【最寄り駅】JR伊東線宇佐美駅

平安末期に伊東祐継の子祐茂が宇佐美氏を名乗りここに住した。
空堀や土塁など残っていたそうであるが、麓に石碑があるだけで 現在はほとんど何も残らない。 本丸と思しき最高所は後世に削平されたようで、 巨木が残る部分(右画像)は当時のままのようで、 土塁のようで土塁でない可能性も高い。

本丸? 虎口? 土塁?

伊東氏館


伊東市【最寄り駅】JR伊東線・伊豆急行伊東駅

平安末期に築城された。藤原南家工藤氏の伊東氏累代の居館で、 伊東祐隆が築いたという。
現在、物見塚と云われ、伊東祐親の像が立っており公園となっている。 また3代目の物見の松も残る。 麓の仏光寺は伊東八郎左衛門尉(=朝高?)の屋敷跡と云われる。

伊東祐親

小長谷城(小長井城・徳谷城)


川根本町(旧本川根町)【最寄り駅】大井川鐵道千頭駅

今川氏に属していた小長谷氏の居城。永禄11年(1568)武田信玄の駿河侵攻で、 武田氏に属するようになった。(大系・現地案内板より)
現在は、徳谷神社及びB&G本川根海洋センター(以前は廃校)に残る。 大井川を西側に臨む高台にあり、 まず空堀があり(左端画像)、それから上がって井戸と2段の曲輪があり(中央画像)、 現在社殿のある主郭がある。 主郭の裏(山側)に出丸が2つ重なり、それぞれ空堀が残る。 山側は茶畑となっており、遺構は分らない状態である。 南側は鳴沢により谷となっている。
尚、麓には小長谷長門守則詮の墓(宝筺印塔)がある。

空堀1 3郭・2郭 空堀2

生土城


小山町【最寄り駅】JR御殿場線駿河小山駅

大森氏が相模へ進出する前に築城したとか、 鎌倉公方足利持氏が居住したとか伝わるが、確証されていないようである。
酒匂川の背後にある山の尾根上にある。 井戸跡(左2画像)があり、背後に切岸(中央画像)があり、上の曲輪には祠がある。 さらに尾根を上へ進むと、埋まってしまっている堀切(右2画像)があり、 段違いの虎口(右端画像)がある。その西斜面に数段曲輪らしい跡もある。

石碑 井戸跡 切岸 堀切 虎口

丸子城


静岡市

今川氏被官の斎藤氏歴代の居城であった。 その後、今川氏親の時に接収し、三角山へ城域を拡大した。 永禄11年(1568)武田氏が興津河原で今川氏を敗り、 山県昌景を駐屯させ、今川氏に備えた。 天正6年(1578)頃に屋代勝永に替わり、 同年9月に高天神城が徳川氏に落城され、退去した。 松平備後守が入り、家康が関東に転封となるのに伴い廃城となった。
泉ヶ谷の、痩せた尾根から登ると、柑橘系の畑があり、 城域に入る。 しばらく行くと、三日月堀の虎口となり、細長い土橋で中へと入る(上最左画像)。 さらに進むと、虎口が残り(上左2画像)、北城に至る。 北城は築城時初期からの物であるらしいが、 武田氏の時代に三日月堀など改修が加えられたのだろう。 北城の北側には、土塁があり、北への下り坂には堀切で尾根を断ち切ってある。 北城から武田氏時代の本曲輪と推定されている、 南城の千畳敷まで西側に土塁が続き、堀切が数条あり、 曲輪が幾つか設けられている。 一方、その土塁の外側は、長い横堀が続いていて圧巻である(下左2画像)。 千畳敷とその北城から続く北側にある二の丸の間には、 大きな堀切が残り(下最左画像)、板橋が渡されていたらしい。 千畳敷は西側に土塁が残り(下左3画像)、東側に平虎口が残り、 数段腰曲輪がある。 また千畳敷の西側には食い違い虎口が残る(下最右画像)。 この虎口から下ると、空堀を挟んで、大鈩曲輪と呼ばれる、 捨て曲輪なのか、空堀で囲まれた曲輪がある。

三日月堀 虎口
堀切 横堀 本曲輪 食い違い虎口

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