平安末期に伊東祐継の子祐茂が宇佐美氏を名乗りここに住した。
空堀や土塁など残っていたそうであるが、麓に石碑があるだけで
現在はほとんど何も残らない。
本丸と思しき最高所は後世に削平されたようで、
巨木が残る部分(右画像)は当時のままのようで、
土塁のようで土塁でない可能性も高い。
平安末期に築城された。藤原南家工藤氏の伊東氏累代の居館で、
伊東祐隆が築いたという。
現在、物見塚と云われ、伊東祐親の像が立っており公園となっている。
また3代目の物見の松も残る。
麓の仏光寺は伊東八郎左衛門尉(=朝高?)の屋敷跡と云われる。
今川氏に属していた小長谷氏の居城。永禄11年(1568)武田信玄の駿河侵攻で、
武田氏に属するようになった。(大系・現地案内板より)
現在は、徳谷神社及びB&G本川根海洋センター(以前は廃校)に残る。
大井川を西側に臨む高台にあり、
まず空堀があり(左端画像)、それから上がって井戸と2段の曲輪があり(中央画像)、
現在社殿のある主郭がある。
主郭の裏(山側)に出丸が2つ重なり、それぞれ空堀が残る。
山側は茶畑となっており、遺構は分らない状態である。
南側は鳴沢により谷となっている。
尚、麓には小長谷長門守則詮の墓(宝筺印塔)がある。
大森氏が相模へ進出する前に築城したとか、
鎌倉公方足利持氏が居住したとか伝わるが、確証されていないようである。
酒匂川の背後にある山の尾根上にある。
井戸跡(左2画像)があり、背後に切岸(中央画像)があり、上の曲輪には祠がある。
さらに尾根を上へ進むと、埋まってしまっている堀切(右2画像)があり、
段違いの虎口(右端画像)がある。その西斜面に数段曲輪らしい跡もある。
今川氏被官の斎藤氏歴代の居城であった。
その後、今川氏親の時に接収し、三角山へ城域を拡大した。
永禄11年(1568)武田氏が興津河原で今川氏を敗り、
山県昌景を駐屯させ、今川氏に備えた。
天正6年(1578)頃に屋代勝永に替わり、
同年9月に高天神城が徳川氏に落城され、退去した。
松平備後守が入り、家康が関東に転封となるのに伴い廃城となった。
泉ヶ谷の、痩せた尾根から登ると、柑橘系の畑があり、
城域に入る。
しばらく行くと、三日月堀の虎口となり、細長い土橋で中へと入る(上最左画像)。
さらに進むと、虎口が残り(上左2画像)、北城に至る。
北城は築城時初期からの物であるらしいが、
武田氏の時代に三日月堀など改修が加えられたのだろう。
北城の北側には、土塁があり、北への下り坂には堀切で尾根を断ち切ってある。
北城から武田氏時代の本曲輪と推定されている、
南城の千畳敷まで西側に土塁が続き、堀切が数条あり、
曲輪が幾つか設けられている。
一方、その土塁の外側は、長い横堀が続いていて圧巻である(下左2画像)。
千畳敷とその北城から続く北側にある二の丸の間には、
大きな堀切が残り(下最左画像)、板橋が渡されていたらしい。
千畳敷は西側に土塁が残り(下左3画像)、東側に平虎口が残り、
数段腰曲輪がある。
また千畳敷の西側には食い違い虎口が残る(下最右画像)。
この虎口から下ると、空堀を挟んで、大鈩曲輪と呼ばれる、
捨て曲輪なのか、空堀で囲まれた曲輪がある。
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