高島七頭の田中氏の詰めの城。
信長公記において元亀元年(1570)4月『廿一日高嶋の内田中が城に御泊り。』と見える。
元亀3年にも浅井・朝倉方を攻め、
元亀4年7月26日に『陸は御敵城木戸・田中両城へ取懸け攻められ、』
その後敵方は、城を明け渡し退却し、明智光秀に木戸・田中城を与えたとある。
現在、上寺城は旧安曇川町によって非常に良く整備されている。
麓から屋敷跡、曲輪跡が残り、武者隠し、土塁、堀、土橋などよく残っている。
観音堂から上に本丸跡があり、土塁と空堀がある。
また搦手も堀切で断っている。
高島七頭の永田氏の居城。永田氏は高島高信の次男胤信が祖という。
浅井・朝倉勢の先鋒として坂本合戦で討死し滅亡した。
「てらかやぶ」と云う竹薮が遺構といわれる。
画像の地点が「てらかやぶ」であるなら、土塁らしき土盛りが残っている。
信長公記に元亀3年(1572)の浅井攻めに『海上は打下の林与次左衛門』とあるように、
打下城主?の林与次左衛門が織田方で出陣している。
元々、清水山城の出城であったともされ、高島氏の勢力下に入り、
その後、浅井・朝倉の勢力下に置かれたと想像される。
その後、磯野員昌が城主となり、出奔後、織田信澄が入り、
麓の大溝城へ移った。
によって、本城は大溝古城とも呼ばれる。
勝野の日吉神社から登山道が続き、堀切2本と土塁を越えると、
中央の曲輪に繋がる。北側に石塁が残り(左端画像)、南側は土塁で囲まれ、
直下に堀切があり、南に南曲輪が残る。
やはり圧巻は北曲輪である。数段の曲輪を下ると、
土塁で挟まれた虎口(中央画像)が待ち構えている。
この曲輪は中央の曲輪と比較すると防御性が高く、
曲輪全体が土塁(右端画像)に囲まれ、
曲輪内でも北側は1段下がった構造となっている。
また、この曲輪の南東には谷へ向って、数条の畝状竪堀が残っている。
攻城軍はおそらく北側から攻めると想定した作りである。
永正2年(1505)高島玄蕃允が長法寺跡に築城したという。
打下城から西へ行き、南へ坂を登った所が、長法寺山北遺構だと思われる。
人工的な臭いがするが、はっきりと城郭の跡と断定できなかった。
また南へ下って、長法寺跡に入り、東に行くと、
「←長法寺城跡」と看板がある。
倒木を越えてしばらく行くと土塁(左端画像)らしき構造物しかない、
平坦地がある。この平坦地のすぐ下にも曲輪らしき平坦地が下り坂の横にある。
長法寺跡も含めて、曲輪らしい箇所もあり、またそうでない可能性もあり、
よく分らないのが事実であった。
承久の乱後、佐々木信綱が朽木荘を与えられ、3代後義綱が朽木姓を名乗った。
高島七頭の1つである。
当地がいつ朽木氏の本城となったかは数説あるようではっきりしないが、
江戸時代以降は当地が陣屋であった。最近の発掘で室町時代まで遡るらしい。
江戸時代には1万石をぎりぎり(9595石)越えぬ便利な地位(旗本)にありながら、
大名的な扱いを受けた。
朽木氏は鎌倉時代から江戸時代の終焉まで連続的に当地を領した稀な一族である。
現在は郷土資料館および発掘し易いようにグラウンドとなり、
一方、住宅地になって部分も多く、遺構は余り残っていない。
元亀元年(1570)、信長軍が朝倉攻めで金ヶ崎城に陣をしていた折に、
浅井氏の寝返りを聞き、急ぎ、京へと逃走した際に、
信長公記に『四月晦日、朽木越をさせられ、朽木信濃守馳走申し、』
とあるように朽木を経由をしたことは著名で、
当時朽木氏は浅井方であったと想像されるが、
松永久秀(資料館の資料)の説得で信長軍に対し、京都まで道案内したようである。
その後、朽木氏は浅井氏からどう扱われたのかが分らないが気になるところである。
陣屋から北にある西山城へは、2006年7月の段階で、『ヤマビル』が発生しているらしく、
断念することにした。『ヤマビル』の活動しない冬は雪に覆われ、その前後は、
熊も出没するらしく、登城の時期が難しい。
享禄元年(1528)足利義晴が、朽木稙綱を頼り、京から落ちのびてきた際に、
当地に3年間住した。その際、細川高国が造ったと云われる庭園が今も残っている。
また、足利義輝もここへ落ちのびて6年間過している。
その後、慶長11年(1606)に朽木宣綱が正室の菩提を弔うために秀隣寺を建立した。
現在、秀隣寺は朽木氏の菩提寺である興聖寺の境内に庭園のみが残る。
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