築城年ははっきりしないが、浅井・朝倉勢が信長と対立した、
元亀元年(1570)頃が妥当か。
白鳥越え沿いの陣城で、西は一乗寺山城まで近く、
東も壷笠山城まで距離もない。
比叡山ホテルの西にある一本杉のさらに西の尾根上に残る。
本丸の東西を堀切で切る以外には、曲輪が多数、高低差を利用して築かれている点が特徴的である。
一本杉の駐車場の柵を越えて南に排水溝を下ると、 細長い尾根上に遺構はかすかに残る。ここの遺構を見る限り、 ここは中心となる本城の支城もしくは突端と見れる。
本丸と思しき箇所は土塁で囲まれ、北東方向に尾根が伸び、曲輪が残る。 本城とは云い難いが、独立した砦であったようだ。
こちらも一本杉西の城と同様に浅井・朝倉勢の陣城か。
ドライブウェイによって破壊された感がある。
ここも細長い尾根上に西の高地を本丸として東へ展開している。
ただし、本丸周辺の遺構がはっきりしているのに対して、
東へ行く程、遺構の臭いは消える。白鳥越えなのか分らないが、
街道を押えるための砦か。
正直、歩いて、見た感じでは遺構を感じない。 しっかりと測量しないと『滋賀県中世城郭分布調査報告』のような縄張り図は描けないだろう。
佐々木氏の氏神を祀る大荒比古神社の東側に残る。
神社東側に湿地状の堀があり、土塁を越えると、
細かい土塁と堀で区切られた住居跡が歴然と残っている。
この区域の北側にも2重の土塁と堀があり、外とは土橋(最左画像)で繋がる。
現在、城館跡と云われる辺りは住宅もあり、破壊されている所もある。
一番南にある神社の鳥居辺りから、現在の遺構の辺りまで、
かつては田畑を含めた広大な屋敷であったようだ。
ここと清水山城、および清水山麓城館群との関係がまだ分っていないらしい。
こちらが佐々木越中氏の本来の城館跡だろうか。
佐々木一族の高島氏(佐々木越中)の本城。
佐々木信綱の2男高信が高島氏を名乗り、その長男泰信が越中家を相続し、
高島惣領家として支配した。
応仁年間に為綱が築城した。
その後、浅井・朝倉氏に支配下に入り、元亀年間に信長の支配下になった。
現在、区画整備されたせいか、人の手が入ってしまい、
東の曲輪付近が破壊されているが、遺構はよく残っている。
本丸南には畝状竪堀があり、これは浅井・朝倉時代の物と云われる。
本丸には城館があったらしく、礎石も残る(最左画像)。
本丸から南西側に、二の丸、三の丸と堀切(左から2番目画像)を挟んで続く。
また、本丸から堀切を挟んだ北側にも曲輪があり、
その北曲輪の北側には、数条の畝状竪堀(左から3番目画像)、
武者隠し(最右画像)、土塁、堀切など残る。
区画整備されて遺構は多少破壊されているものの、 かつての清水寺跡に築かれたという城館跡の遺構はよく残っている。 土塁で区切り、井戸がそれぞれに残っているらしいが、 井戸はよく分らなかった。麓からの大手道が残っているが、 これは寺院当時の物の残りか。
高島七頭、山崎氏の居城。元亀年間の信長の侵攻で灰燼と帰し、
山崎氏は中村と改姓し帰農したという。
現在は、天満宮、信広寺となっている。
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