六角氏家臣後藤氏の居城。詳らかな歴史については不明。
現在は佐生集落から道があり、山道をしばらく行くと、南の石塁が現れ、城域となる。
後日、縄張り図を見ると綺麗な三角形をしていることが分るが、
東側は薮化しており、石塁もなく、はっきりと分りかねる状態だった。
これとは対照的に、北、西側は石塁が残っている。
規模としては単郭で大きくはない。
佐々木義弼(=六角承禎)が築城し田中治部大夫が守ったらしい。
永禄11年(1568)9月
信長が観音寺城の六角承禎を攻めるべく、箕作城を攻め落城させると、
和田山城の城兵たちは恐れをなして逃散したという。
和田山神社の裏手の山である。
三角点のある山頂近辺は薮化しているが、堀と土橋(左から3番目画像)、土塁が残る。
北にもさらに曲輪が残っているようであったが確認していない。
とにもかくにも薮化していたのが残念だった。
また、南に行った所にある頂にもかすかに曲輪などの遺構(左から2番目画像)が残っているように見えた。
六角氏綱(西条氏祖)が築城したという。その後、六角氏の滅亡まで西条氏の居城であった。
円山神社から山頂まで道が続く。本丸手前に堀切がかすかに残る。
その手前に四角形の石塁による台が残っているが、
これは遺構でなく、神社の奥の院の跡か?
本丸跡はかすかに曲輪の跡が残るくらいで、
メインは東方に伸びる尾根上の曲輪群らしいが、
今回は余りの暑さで回避した。
佐々木(六角)定頼の出城という。
北之庄神社社殿から右へ行くと裏側から道が続く。
(誤って左側の道へ行ったが道がなく強引に登ると道に出た。)
しばらく行くとかすかな堀切に出て、その先に深い堀切があり、
土橋で本丸内へと入る(左端・中央画像)。
城内は平坦でなくかなりボコボコしている。
北と南と土塁で仕切られ、
東側には西から北へと直角に曲がる桝形虎口が綺麗に残っている(右端画像)。
また北の曲輪には今も池が幾つか残っており、多少薮化していた。
この桝形虎口と神社からの虎口とは築城年代に差があるように思えた。
九里氏の居城。永正5年(1508)信隆の頃、11代将軍足利義澄をかくまった。
12代将軍義晴はここで誕生したが、義澄が急逝してしまった。
永正11年(1514)六角氏に信隆は謀殺され、同17年(1520)子浄椿の時、六角定頼に攻められ落城した。
その後、残党が復帰したが黒橋合戦に敗れ廃城となった。
当時は、湖に浮かぶ城であったようだが、以後周りは干拓されてしまった。
北から頭山、尾山(大山)、亀山と3つ連なる山が城址で、
石碑のある側の山、頭山は造成工事で破壊された。
一方の尾山は南面から登れそうであるが、地主の許可なく立ち入りできす、
北面の"水茎の岡"の碑がある地点から配水場へと階段を登ってアプローチするのが、
採るべき選択であるようだが、すさまじく薮化しており、
2mくらいの薮となった配水場手前で断念した。冬場であればまだマシか。
一方、亀山の方は一部墓地になっていた。
石碑のある地点から尾山への道があるので登ってみると、古墳跡か石室のような物があり、
その東側には土塁らしき曲輪があった(右画像)。
また碑の北側、頭山の南面は竹林で曲輪らしき跡もあり、上へ行ってみると、
工事用の道があるが頂上へは薮が酷すぎてここも断念せざるをえなかった。
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