秀吉が浅井氏の滅亡後築城し、その後小谷城から移った。
浅井氏の小谷城を攻めるために秀吉が3年間持ちこたえた城。
石田三成の生誕地石田から登山口がある。駅から約6kmあり遠かった。
石田三成の居城として有名。当時、三成に過ぎたるものとして、家臣の島左近と、
この佐和山城と云われた。関ケ原の戦いの直後に東軍に囲まれ落城した。
その後、彦根藩主となった井伊直政によって痕跡がなくなるまで、
徹底的に壊され彦根城などに利用された。
現在は従って遺構は石垣が天守閣跡らしきところにあるらしいが、草むしており、
確認できなかった。曲輪跡は多く残っている。
太鼓丸手前に堀切が残っている。(左3画像)
8号線をトンネルを抜けた北側に大手門跡が畑の手前にある。
土塁らしき跡があり(右端画像)、
大手門内はかつての屋敷跡なのか、平坦地が畑となっていた。(左4画像)
織田信長の甥である織田信澄の居城。明智光秀の縄張りによる。
が、明智光秀の娘婿だった為に、
丹羽長秀・織田信孝に殺され廃城となり水口にある岡山城に移された。
大溝城主は、丹羽長秀、植田重安、加藤光泰、生駒親正、京極高次、
織田三四郎、吉田修理と代わり、
江戸時代元和5年(1619)に、分部氏が2万石で入った。
現在は本丸跡の石塁のみがぽつんと存在する。
明智光秀の居城。山崎の合戦の後に明智秀満は火を放って自害した。
現在は琵琶湖に水没した部分もある。遺構はあまりはっきりしない。
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