築城時期については不明。
後北条氏が松山城を支配していた頃にその支城となっていたようである。
仙元山の南西側の尾根上に位置する。
本郭(中央画像)を中心に東側に深い空堀を挟んで(左画像)、
三の郭があり、ややボコボコしている。三の郭の東側にも空堀がある。
一方、本郭から北西側に枡形虎口もあり、
南側には二の郭が堀切を挟んである。二の郭から南側へは急坂である。
二の郭から小倉城へ尾根伝いに縦走できるようである(未踏査)。
永禄4年(1561)上杉輝虎(謙信)が築城し、
忍城の成田長泰に対し、
木戸監物入道玄斎を置いた。
永禄12年(1569)に上杉北条間で和睦し、木戸氏は羽生へと移った。
現在は、大雷神社の南側に石碑がある。神社の北側に土塁、北東側に、
堀の跡らしい物が残っているが、当時のものかどうかは不明。
築城の時期についてははっきりとしていない。
天文5年(1536)には古河公方
(足利晴氏)広田直繁が城主であったことが確認されているが、
天文21年(1552)北条氏により落城され、中条出羽守が城代となっている。
永禄3年(1560)上杉輝虎(謙信)により落城され、
広田直繁・河田谷(木戸)忠朝兄弟が復帰した。
その後、北条・上杉間で講和が成立したが、
元亀2年(1571)武田・北条間で講和が結ばれ上杉・北条間は切れた。
天正2年(1574)上杉謙信は城を壊し、木戸忠朝を上野の膳城に移した。
翌年、忍城主成田氏長が支配し成田長親が城代として入った。
天正18年(1590)秀吉の関東征伐の際に、
城代善照寺向用斎は忍城に籠城した。
北条氏の滅亡後、徳川氏家臣大久保忠隣が2万石で城主となった。
慶長19年(1614)改易となり、羽生城は破城となった。
その後、天領となり、陣屋が置かれた。
(大系・現地案内板より)
現在は古城天満宮となって、当時あった堀も既になく、
かつての面影はない。
室町時代には存在した。菖蒲城の支城であったとも。
騎西城
主の小田顕家は成田親泰の子助三郎を養子とし、
上種足百石に隠居した。(現地案内板より)
現在は城址公園になっているが、遺構は全くない。
周辺の発掘では室町時代の陶磁器や漆椀などが出土したとか。
康正元年(1455)上杉・長尾・庁鼻和氏が守る城を古河公方足利成氏が
攻略したのが初見である。
忍城
主成田親泰の次男助三郎が城主であった小田伊賀守顕家の養子となり、
永禄6年(1563)北条方に鞍替えしたために、上杉謙信に攻められ落城された。
その後、城主は成田泰喬、成田泰親と替わり、
天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の後、徳川領となり、
松平康重が2万石で城主となった。
その後は、大久保忠常・忠職が城主となり、
寛永9年(1632)美濃加納城
に移封となり、廃城となった。
(『埼玉の城址30選』・現地案内板より)
当時は、二重の障子堀などあり、水堀に囲まれていたようだが、
現在は、わずかに修復された土塁跡が残るのみである。
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