康正2年(1456)足利成氏の家臣金田式部則綱が築城した。
子孫である、源四郎秀綱は成田氏長に仕え、
天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐後、廃城になった。
(『埼玉の城址30選』より)
遺構はなく立派な石碑が立ち、あやめ園となっている。
内藤(栢間)陣屋の裏門が移築保存されている。
小栗忠政は2千石で旗本で、その2男信由が大坂夏の陣で功があり、
父の采地である当大成村をもらい、その後寛永2年(1625)250石の加増があった。
延宝元年(1673)に一旦天領となったが、
明和5年(1768)信斉の時に再び采地となり、明治維新まで小栗家の治める地であった。
(現地説明板より)
現在は普門院となり、小栗氏本家分家の菩提寺となっている。
遺構は残っていないようである。
岩付城主太田氏家臣伊達与兵衛房実の居城であった。
家康が江戸に入ってからも、そのまま当地大和田を治めた。
(現地説明板より)
現在は住宅地となっているが、土塁がところどころ残っている。
平安時代、別府二郎行隆の次男次郎行助から甲斐守頼重が文和3年(1354)に没するまで、
別府氏の館であった。
城郭大系には土塁が残っているように記載されてあるが、
住宅地にある畑の隅に石碑があるのみで遺構は残ってないように見えた。
平安時代、成田助高の次男次郎行隆が地の別府氏を名乗り、
その子太郎義行(能幸)から10代尾張守長清まで別府氏の居城であった。
天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の際に北条側に付いたために家禄を失い、その後廃城となった。
(大系・現地説明版より)
奈良の春日大社を勧請した東別府神社が中央部に祀られ、
その東西北を空堀と土塁が囲繞している。南側にも土塁が残るが、
住宅地化でやや消滅したらしい。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。