寛永6年(1629)伊奈忠次の次男、忠治の時、兄忠政の跡を継ぎ、関東郡代となり、
現在の伊奈氏屋敷跡である小室から移った。
寛政4年(1792)十代目の忠尊の時に所領を没収され改易となり、廃城となった。
城内は苗木畑となっているが、本丸を中心に周囲を囲む空堀がよく残っている。
また本丸東にある山王社は物見台として利用された。
武蔵七党の1つである村山党に属する金子高範が領地を得、
その子孫が鎌倉時代に館を築き、難波田氏を名乗った。
観応2年(1351)足利尊氏とその弟直義との争い(観応の騒乱)に巻き込まれ、
難波田九郎三郎は高麗経澄に討ち取られている。その後、
戦国時代に入り、
難波田善銀(正直or憲重)が扇谷上杉氏の重臣として松山城の城代であった。
が、天文14年(1545)河越夜戦で北条氏康の奇襲に遭い、
東明寺の古井戸に落ちて亡くなったという。難波田氏滅亡後は、
北条氏の領地となり、上田左近(周防守)の知行地となった。
天正18年(1590)廃城になった。
平成12年に復元整備工事により公園となる前は田畑で地表には何も残っていなかった。
現在は、江戸時代に記録された数々の城古図から水堀や土塁、木橋、
門などが再現されている。
やや近代的な城址で面影は余り感じられないが、
それまで地表に何も残っていなかったことを考慮すれば、
評価される城址であろう。
鎌倉時代に毛呂氏が居館を置いた。大永5年毛呂土佐守顕季が館を廃し、
現在の金嶋山長栄寺を建立した。(現地案内と大系より)
現在、長栄寺となり、裏山に堀切と曲輪の跡が残る。
また毛呂氏数代の墓地もある。
武蔵七党の1つ丹党に属し、
鎌倉時代に加冶家季の頃に中山に居住し、姓を中山に改姓した。
天正18年(1590)中山家範は後北条氏に属し、八王子城で討死した。
北側に勘解由山、東に加冶堀、西に丹生堀で囲まれて、
館の周囲に幅4〜6m、深さ1〜2mの堀があったようだが、
現在では北西部隅、
石碑(中央画像)のある所だけに空堀の跡がある(左端画像)。
丹生堀の外側には、現在でも智観寺があり(右端画像)、
水戸徳川家の家臣となった、中山家の代々の墓が残っている。
(参考、現地説明板)
天文年間(1532〜55)に上田氏家臣山田氏が築城したと推測されている。
天文年間には、松山城主上田直朝に使えた山田伊賀守直定(直昌)が城主だった。
埼玉県指定遺跡で、槻川が蛇行する突端上(216m)にあり、
安戸方面の入口として重要な位置にある。
西側には根古屋という地名も残る。
大手口と伝わる、榎戸から登ると堀切(最左画像)に到達する。
本郭の北西側は崖状で東側と南側に郭が展開する。
竪堀(最右画像)が多用されており、榎戸から登って来ても、
なかなか本郭には辿り着けない縄張りである。
本郭は二の郭から虎口を経て入る。
一方、二の郭から南西にも折れ曲がる虎口があり、
直進すると、その先の郭との間に深い空堀が存在する。
二の郭の南東部には腰郭が幾つか竪堀で区切られて残る。
「囮小口」と呼ばれている小口には石塁も残る。
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