遠藤氏の居城。
当日は、弱い雨が降っていた。
ただ、ここにいた時点で持参金が千円を切って
いたことには、ヒヤヒヤさせられた。
斎藤道三、織田信長の居城として有名。信長が統治後、岐阜と命名。
ロープウェーの料金をけちって、登り初めたのがクセになるとは。
関ケ原の戦いの時、西軍の前線基地となったが、憐れかな、石田三成は
東軍の誘いに乗って、関ケ原に陣を敷くはめになった。
土岐持益家臣斎藤利永が土岐氏の革手城を守るために築城した。
その後、土岐氏は内部抗争となり、天文7年(1538)斎藤道三が宗家を嗣ぐに及び、
廃城となった。
その後、関ケ原で勝利した家康は、
慶長5年(1600)本多忠勝に命じ、岐阜の本拠を岐阜城から移し、
築城させた。奥平信昌が初代城主となり、その後、大久保氏、
戸田氏、安藤氏、永井氏と続き、明治維新を迎えた。
現在、本丸の石垣や土塁などが残っている。
また発掘調査では、斎藤氏時代の遺構も出土した。
稲葉通貞が文亀元年(1501)に築城したともいうが定かでない。
その後、孫の一鉄、その孫の典通まで城主であったが、
天正16年(1588)に西尾光教が2万石で城主となり、関ケ原の戦いでは東軍に属した。
関ケ原の戦いの後、揖斐城に移り、廃城となった。(現地案内板、『岐阜の山城』より)
尚、稲葉一鉄の家臣であった、斎藤利三が住んでいた所で春日局の生誕地となっている。
現在は、本丸が華渓寺となっており、一段高い所にある。
裏手には本丸跡石垣の案内板があり、平成元年に石垣と石敷遺構が発掘されたとある。
当時の物か分らないが池も残る。
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