残存状況さらにはコンパクトで技巧的な城址として有名な当城ではあるが、
詳らかな歴史は分っていない。
城主は、松山城主家臣の庄氏と、
推測されている。
築城年代としては、北条氏が河越・松山城を確保する、
天文〜永禄(1532〜1570)年間頃だと限定されている。
西側は市野川が流れ、崖に近い状態であるために、
南北と東に曲輪は山頂部から隙もなく展開される。
死角を作らぬように表面積を増やし、
横矢掛けも多く作られている。
南側が大手門であったらしく、
虎口や土塁、空堀が数段続いてる。
東側は比較的広い曲輪が3段続く。
北側は最北端の辺りが、比較的防備が薄く感じられた。
当然越畑城と関連があるか。
現在は土地所有者のおかげで完全公開され、
地元の中学校も整備しているようで、
歩いて見る、教科書と云った印象である。
平安末期に築城されたのか、鎌倉時代初期には畠山重忠の居館であった。
しかし元久2年(1205)北条氏の謀略により、二俣川で敗死した。
その後、太田資康が入ったとみられている。
その後は詳細に分っていないが、
縄張りから後北条氏の手が入っていると推測されている。
5つの曲輪から構成される。それぞれの郭との間には、
空堀や土塁などでしっかりと区分けされている。
南側は都幾川が流れ天然の堀となっている。
大手門から繋がる西の郭から三の郭への道の途中には、
堀を渡り門を入った後、しとみ土塁と呼ばれる、
視野を遮る土塁が残っている。
土塁は本郭の物が高く強固である。
現在国指定遺跡となり、歴史資料館が三の郭にある。
源為義の次男、源義賢の居館跡。
久寿2年(1155)甥の源義平との戦い(大蔵の戦い)で敗死した。
大蔵神社が南西の隅になる方館だったようで、神社に土塁、
さらに東に100m行った所にも土塁が南北に残っている。
桓武平氏秩父氏の流れを汲む河越氏の居館跡。
重頼の娘は源義経の妻として選ばれた。
応安元年(1368)平一揆と呼ばれる、
鎌倉幕府に対する叛旗を翻すことを起こしたが、
敗れ、歴史から消えた。
その後、山内上杉氏が扇谷上杉氏と対抗上、陣を布き、
現在残る土塁を築いたと考えられている。
鎌倉時代後半に館内に建立された常楽寺が今も残り、
境内の外は草っぱらとなっている。
その北西部辺りに土塁が残る。
平安時代末期に築城された。詳細な歴史は分らない。
現在は西光寺の東側に土塁らしき跡があるが、
当時の物なのかはっきりせず、いまいち納得できない気分になる。
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