長禄〜文明(1457〜87)に太田道灌が築城した、また、
太田康資の居館とも云われているが定かでない。
城山公園となっているが、比較的遺構はよく残っている。
西側から曲輪が続き、空堀に囲まれた曲輪が残っている。
渋川氏の歴代の居城。
長禄元年(1457)義鏡の時に足利義政により関東探題に任ぜられ蕨城に入った。
古河公方の足利成氏を討伐するのが目的であった。
その後、北条氏綱の侵攻の前に、北条氏に従い、上杉朝興に攻められ落城した。
北条氏の後ろ盾で奪還したが、安房の里見義弘との北条氏の戦いに救援に行ったが、
戦死した。その後、家康により鷹場御殿が作られたという。
現在は、和楽備神社の南側に土塁と堀が残っている程度である。
寛正初期(1460年)の頃、山内上杉氏家臣の夏目舎人亮実基が築城したという。
山内上杉氏は手狭なために平井城に移った。
その後、永禄年間(1558〜1570)
鉢形城の北条氏邦の持城となり、
横地左近忠春を入れた。天正18年(1590)秀吉の北条征伐で、落城した。
その後、関東に入った家康の家臣、松平家清(竹谷松平氏)が1万石で入り、
関ケ原後、吉田に転封となり、
廃城となった。
現在は、公園となっているが、学校の敷地になって、
空堀や水堀、土塁と櫓台跡などが残っている。
猿尾太郎種直が鎌倉時代に、
また斎藤六郎衛尉重範が室町時代初期に築城したとされ定かでない。
現在はテニスコートになっている部分もあるが、
土塁とその周りに空堀が残っている。規模はさほど大きくなく、
城館とその周りに帯曲輪と堀切で守りを固めていたようだ。
なぜか孔雀がいて、すさまじい鳴き声を上げていた。
すぐ南側に残る杉山城同様に詳らかな歴史は分らない。
杉山城の砦であったか。
現在関越道の西側にあり、開通に伴い、破壊されたようである。
現在は、愛宕神社から関越道と平行に北へ尾根が続くが、
夏場であるためか薮のために曲輪の構造もはっきりしなかった。
愛宕神社の南側に段らしい物が残っていたが、
当時の物かはっきりせず、
城址に残る雰囲気を全く感じられなかった。
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