上杉氏の城であったが、北条氏・武田氏の前に落城。
遺構は堀や土塁の跡がはっきりと残っている。
古代人の住居跡である"吉見百穴"のすぐ近くにある。
太田氏が築城。 現在は岩槻公園になっている。
古河公方足利成氏の嫡男政氏が、その嫡男高基と争い、
最終的に高基が実権を握り、政氏は和解し、
享禄4年(1531)に亡くなるまでここにいた。
永正16年(1519)に館を永安山甘棠院として開山した。
現在は甘棠院の境内が城址で、山門の前に「L」字の空堀が残っている。
土塁も残っているということだが、
中に入れないエリア(甘棠院の北)にあるようである。
岩槻城主太田資正の4男潮田出羽守資忠が築城した。
が、天正18年(1590)の秀吉の北条征伐の際に、岩槻城と共に落城した。
現在は、大宮公園の近くに石碑が立ち、少し行くと寿能公園があり、
城址とされているが、遺構は何もない。
八王子城城主の北条氏照の支城で、天正18年(1590)の秀吉の北条征伐の際に、
八王子城落城の前後に同様に落城したと想像される。
現在、柳瀬川を見下ろす高台に城址は残る。
城山神社のある曲輪を中心に空堀がよく残っているが、
他の曲輪は薮化している。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。