永正2年(1505)一色城主、牧野古白が築城した(当時は今橋城)。
翌年には今川氏親が松平氏を攻めるために今橋城に入城している。
その後、戸田氏と牧野氏で争い、今川氏と松平氏の争いへと規模は拡大していった。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした後、
徳川氏の持城となり、酒井忠次が城代となった。
天正18年(1590)以後は池田輝政が入った。
江戸時代には譜代大名が次々と代わった。
北側に豊川が流れ、縄張りは南側に展開している。
牧野古白時代の城は、三の丸の金柑丸辺りと推定されており、
付近には確かに土のみの土塁・空堀が残っている(右端画像)。
斯波氏の被官織田氏の居城。清洲の織田氏と同列で、信長に従った。
現在は公園となっているだけで、遺構ははっきりしない。
織田氏は岩倉と清洲に分れて尾張を二分して争っていたが、
この岩倉城は清洲の信長に滅ぼされ、信長は尾張を統一した。
織田敏広が築城した。永禄2年(1559)その孫、信安の時に落城した。
五条川の側に城跡は存在するものの、遺構ははっきりしない。
江戸末期に建てられた碑がある。
15世紀に北条時任が築城。天正12年(1584年)の蟹江合戦で落城した。
現在は蟹江川の側に碑があるものの、周りは住宅地だらけで、遺構ははっきりしない。
元々斯波氏の被官で織田氏と同格であった服部氏の抵抗に対する為に信長が築城した。
信長の弟、織田信興が城主の時に服部氏は一向一揆と組んで信興を死に至らしめた。
これに怒った信長は服部氏と一向一揆の殲滅に乗り出した。
死んだ信興を悼む為に信長が薬師堂を城跡に築いた為に、今はその薬師堂が存在する。
ここにある大楠はその当時から存在するという。
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