元々、波多信時家臣名古屋氏の垣添城であった。
天正19年(1591)10月に着工した。
が天正18年(1590)5月以前から着工していたことが発掘された文字瓦から判明している。
慶長3年(1598)秀吉の死により、諸将は引き上げ、廃城になった。
その後、唐津城主となった寺沢広高が転用したり、
伊達政宗が大手門を仙台に運んだと伝わる。
13の曲輪からなり、規模壮大である。
天守台跡からは玄界灘も見渡せる(左2画像)。
本丸の南側には、普請仕直した跡の古い石塁の跡も残り、
拡張工事をしたことが分っている。
天文年間(1532〜55)原左近大輔(豊後守)氏長が築城したという。
が、文明9年(1477)に在尾城の大村家親が小城の千葉胤朝に負け、尾根越しに逃げ込んだという一説もあり、
築城時期は定かでない。(『風雲肥前戦国武将史 -戦国武将伝と山城散歩』より)
麓の西蔵寺横の民家脇に登山道の入口があるが、案内もなく、分かりくい。
ただ登山道に入れば、山頂までピンクのテープでガイドされるので迷うことはない。
すぐに当時の屋敷跡なのか、石塁で区画整理されたエリアが斜面に登山道に沿って続く。
尾根に出ると巨岩がボコボコと屹立しており、
それを避けていばらく北上すると、平虎口の大手口を経て、主郭へ達する(上段最左画像)。
原城の石碑があり、ここだけ見晴らしが良い(上段左2画像)。
さらに北へ行くと、二郭で東側は2段腰郭があり、壁面は平石の石塁で固められて圧巻である(上段左3,4画像)。
少し下り、三郭となる。郭はうっすらと2段段となっている(最右画像)。
さらに北上すると、搦め手口があり、急な岩場を下るようになっている(下段左画像)。
さらに道は細く絞っている。その先は望楼なのか小高くなっている(下段右画像)。
勝尾城の支城。
宗筑後守が築城したという。(肥前戦国武将史より)
群石山の山頂より1つ西の尾根上に位置し、アーチェリー場を目指し、
そのまま林道に入ると至る。
林道から入るとすぐに東側へ畝状竪堀があるが、そんなに深くもない(最左画像)。
林道は尾根をぶった切っているので主郭の位置が定かでないが、
現在林道より南側の最後部の郭にはうっすらと3本堀切のような跡があり(左2画像)、
余り整形されているようには見えなかった。
その下の郭は平坦地で東側と南側に土塁の跡が残る(左3画像)。
それより1段南側に郭がある。
南面には畝上竪堀がうっすらと残っているが、ここもさほど深くはない(左4画像)。
南側の下へと続く尾根の間に2重堀切が残っている(左5,6画像)。
堀切の先には堀底道のような下り坂がしばらく下まで続いていた(最右画像)。この道が大手道かもしれない。
尚、末端は未確認。
勝尾城から南西に在り、支城であった。
クライミングの大岩の左側から倒木を掻き分け強引に登ると、
南側に虎口らしき跡がある平坦地にでた(上段最左画像)。石塁らしい跡がある。
そこからは倒木が少なくなり、北側に土塁らしい跡がある尾根を
そのまま登ると南側に腰郭らしい平坦地が見える(上段中央画像)。
さらに登ると三角形の形の主郭がある(上段最右画像)。
この主郭の北側にうっすらと搦め手へ下る道があり、
1段下って郭がある(下段最左画像)。
その曲輪から急斜面を北側に下ったところから北へ尾根が伸びており、
西へ竪堀が落ちており(下段中央画像)、その先には堀切が薄らと残る。
一方主郭から南へ虎口を下ると、郭があり(下段右2画像)、
南西に向けて虎口があり、南面に展開する腰郭に繋がっている。
尚登城路は背後の竪堀や堀切のある地点に出るように行く方が楽かもしれない。
クライミング横の道はあまりお勧めできない。
応安5年(1372)九州探題今川貞世勢は菊池氏らの宮方が本告城を攻めだしたので、
当城に陣替えを行った。
応永12年(1405)九州探題の渋川満直は綾部城を宮方の菊池武安、赤星勢に攻められ、
宮浦城に籠った。しかし同年少弐教頼に攻められ、園部城に落ちた。
翌年大内氏家臣陶興房が宮方から奪回しそのまま入った。
永享6年(1434)渋川満直は少弐教頼に攻められ、筑前へ逃れた。
その後は、大内氏の肥前侵攻の拠点となったが、大内義隆が家臣陶隆房に叛かれ、自害した後は、
大内氏は手を引き、勝尾城の支城となった。
その後筑紫庶流の筑紫輝門が城主となった。
宗家を広門が継いだ後、惟門の異母兄の草野信清が広門を抱えて宮浦城もしくは鏡城に籠り、
実権を握ったが、輝門が攻め信清を追い落とし、広門を奪還した。
輝門の代で綾部城に移ったらしく、その後は大友氏の任免による城督が管理し、
草野信清の変の後は筑紫長門入道が城代となった。
その後は定かでないが、宮浦城に「シマドノヤシキ」という名が残っており、
広門を補佐した重臣、嶋鎮慶が関係していたようである。
(「肥前戦国武将史」「基山町史」より)
主郭は平坦ではあるが、整形されているようには見えない(最左画像)。
南東へ下る尾根上に主な郭が展開される。2段腰郭があり、
整形されない斜面となり、その斜面の北側にはかすかに畝状竪堀らしい跡がある。
しばらく下ると、「肥前戦国武将史」で本丸、「基山町史」では曲輪Bとしている、
一番広い郭の北辺の傾斜のある郭へ至る(左2画像)。
一番広い郭の南東に突き出た先には微高地があり、
そこから一気に下ると深い堀切がある(左3画像)。堀切の東端はそのまま南へ斜面を下っている。
堀切の南側に郭があり、堀切に出るところで寺院の駐車場などで遺構は消滅している。
一方、主郭から北へ下ると、細い堀切があるようだが、藪で確認できなかった。
その先は地形を利用したのか、巨大な堀切となっており(最右画像)、
その北側は若干削平地があるものの、それから先は遺構らしい物はなかった。
基肄城に関連する物と推定されている。近くの関屋土塁は開発で消滅している。
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