白村江の戦いに敗れた後、天智天皇は新羅の侵攻を考えて、大宰府政庁を
守るために、大野城、水城、そしてこの基肄城を築城させた。
現在は、当時の礎石が多数残っている。
筑紫氏の本城。麓に居館跡や家臣の屋敷跡がある。頂上は意外と
広かった。
島津氏の侵攻の前に、落城した。この戦いで城主筑紫広門の弟、晴門と
島津家家臣川上左京の一騎打があった。共倒れで、今は川上左京の墓が
ある。
近年国指定遺跡となり、案内板など充実している。 発掘調査により、主殿、会所、庭園の跡など確認され、 石塁を伴った大手口(中央画像)や曲輪など残っている。
少弐氏家臣、朝日氏の居城であったが、戦国末には、勝尾城を本拠とする
筑紫氏の居城となる。しかし、島津氏の侵攻の前に、落城した。
現在は朝日山公園として、古墳跡、烽跡などがある。
平治元年(1159)藤原(日向太郎)通良が築城したという。
平治の乱の際(1159)に源氏との縁から平家に従わず、翌年永暦元年、平清盛が筑後守平家貞と子の肥後守貞能に攻めさせ、
討ち取られた。平家滅亡後に、綾部通俊が本領に復帰した。
南北朝の頃は、九州探題側で活躍した。
天正3年(1575)備前守鎮幸の時に、竜造寺隆信に敗れ、杵島郡横辺田へ移された。
(『風雲肥前戦国武将史 -戦国武将伝と山城散歩-』より)
その後、天正8年の五箇国配分帳には綾部城主として名前が出ており、
江戸期に入って知行地が維持されて、最後の城主だったと推測されている。(『佐賀県の中近世城館 第4集』より)
元久2年(1205)鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請した綾部八幡宮の裏手にある小山が城址で、
境内から登り道がある。
城ダンと呼ばれる、広い郭があり、そこから山頂へ腰郭がいくつか残る。
主郭の西側に、畝状竪掘群が残っており、この部分は戦国期に入ってから改修されたか。
歴史的文献には『江迎城』とは出て来ないとか。 しかしながら、この江迎周辺の豪族の屋敷跡であったことは確からしい。
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