築城時期は定かでなく、文永の役(1274)で活躍した白石六郎通泰が城主であったとされる。
湯野田城は支城で宇礼志野氏と名乗ったが、天文年間(1532〜55)宇礼志野通久の代に白石から当地に移った。
天文2年(1533)に龍造寺隆信の勢力に押された嬉野但馬守通久が白石の稲佐城から移って築城したという説もある。
(大系より)
嬉野医療センター横の西公園が城址であるようであるが、公園化され、遺構は残っていない。
山頂に祠があり、郭らしい雰囲気が残っている。
また北側に伸びる尾根にも郭らしい平坦地が残っている。
『肥前戦国武将史』によると城址はその裏手にある、標高175mの山をさしている。
竹之(ノ)丸と呼ばれる。
主郭を中心に、道路を挟んだ北郭、保育園となっている南郭、そして東郭からなっている。
主郭南側と西側に堀があったことが発掘で判明している。(現地説明板より)
名護屋湾の対岸に別陣があるとはいえ、拍子抜けするくらいに小さく感じる。
主郭南西部に石垣が残る。
名護屋城の南方300mと至近に位置し、10万平方mと山の郭部分と山裾の居館部分からなる。
居館跡では、蹲踞(つくばい)台や雪隠跡、茶の湯関連施設も発掘された。(現地説明板より)
居館部分の西側には修復された石垣を伴う枡形虎口がある。
また山中には、崩れてはいるが石塁を伴った郭群が多数残っている。
当時、堀秀治は18歳で、越前北ノ庄約18万石の城主で6,000人の兵を率いて参陣していたが渡海しなかった。
この陣は11万平方mと大規模で6つの郭からなる。(現地説明板より)
居館跡には、能舞台や茶室2つの跡が発掘されている。
丘の上に位置し、虎口や堀切、空堀など、ほとんど城郭である。
文治年間(1185〜90)に高木宗貞が、先祖の藤原文時の館を構えた地に、麓に館を、山上に城を築き、
息子の宗家の時に完成した。
建文3年(1358)家直の時に足利尊氏の傘下に入り、北朝方についたため菊池武安に攻められ落城した。
その後、弘治3年(1557)神代勝利と龍造寺隆信との金敷峠の戦いの際に激戦地となった。(大系・肥前戦国武将史・現地説明版より)
麓から林道を行けば楽に行けそうだという情報を得ていたが
(今回もここを参考にさせていただいた) 、
その林道自体が、藪化していたり、
土砂崩れが起きていたりで、容易ではなかった。林道の終点からは、基本的に尾根伝いに慎重に標高を上げて行けば、
城の直下に至る。
山頂から南西に掛けて郭が展開され、その南側は果樹園にだったのか、後世に作業農道として削られたようで、
遺構の匂いがしない。
山頂はやや藪化しており、東側下に郭が1つありその周りは傾斜はきつい。
一方南西側には郭が2段あり、薄い堀切?があり、その先に薬師仏?のある郭があり、2段郭が続いている。
その下は上記のように構成に削られた部分が多く遺構は消えているようである。
そこから西へ行くと遺構があったようであるが未確認である。
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