肥前12



仁比山城佐留志城葛籠城森岳城恒広城

仁比山城

神埼市(旧神埼町)

築城時期は不明で、南北朝初期は一色範氏が、後期に宮方の菊池武安が在城した。
仁比山神社の南側、小渕の辺りから登って行くと、どうやら本丸ではないようだが、 出丸に辿り着いた。山頂は巨岩があり、腰曲輪が数段あり、若干石塁が残っている。 『肥前戦国武将史』によれば、 本丸や二の丸は稲荷神社から行けるとのことだが、再挑戦せねばなるまい。
仁比山神社の北側にある山。すぐの尾根に堀切らしい跡がある(下段左)。 山頂まで左回りで登り、シダの生い茂る道を下ったところに堀切が1本ある。

仁比山城1 仁比山城2

佐留志城

江北町【最寄り駅】JR長崎本線肥前山口駅

前田氏の居城。前田志摩守尚忠・伊予守純忠(家定)親子はもともと有馬氏に従っていたが、 丹坂の戦いで有馬氏が龍造寺氏に敗れた永禄5年(1562)、 佐留志に派遣されていた代官高場新右衛門を切り、龍造寺側に寝返った。 その後、家定は隆信に従い、活躍した。
朝鮮出兵で前田利家に同姓のよしみから親しくしたところ、 主君である鍋島直正から咎められ、その後も一悶着あって、誅伐された。 領地は、息子の甚右衛門と右馬允に分け与えられた。
現在は、田に整備されてかつての面影は、クリークだけになっている。 『肥前戦国武将史』に載っている保育園も遺跡と化してしまい、 前田伊予守の供養塔が残る。

馬場城戦死供養塔 水堀?

葛籠城

鳥栖市

勝尾城の支城の1つで、鷹取城の東麓に位置する。 島備後守の築城ともいう。(肥前戦国武将史より)
詳らかな歴史は分らないが、 本丸の南側にある3連続で囲繞する空堀と土塁(右2画像)は圧巻で、 空堀は塹壕の役目を果たしていたようである。 本丸は周囲を空堀で囲まれ(中央画像)、 麓へ下ると、現在でも3mを越える空堀が残る(右端画像)。 また鷹取城へ向かう途中には、武家屋敷跡が残る。 勝尾城を攻めた島津氏の陣城という説もある。

本丸 石塁 本丸空堀 空堀から 麓の堀切

森岳城

鹿島市【最寄り駅】JR長崎本線肥前鹿島駅

流浪していた蒲田江城城主犬塚弾正忠鎮家(播磨守盛家)が天正4年(1576)2月に、 当時藤津を支配していた有馬氏を攻めるための前線基地として、 龍造寺隆信が築城させた。その後、藤津攻略に功を上げ、 120町余を賞与され、森岳城の城主となった。(現地案内板より)
現在は、五の宮神社(和銅年間に創建とされる)のままで、 20m強の小山を本丸とした城址である。 本丸は平坦面もあり(中央画像)、東側に数段段となっているが、 これは近代に神社がらみのもののような気がする。 一方、北側には1段腰曲輪がある(最右画像)。 こちらは、植林用の可能性も否定できない。 竪堀らしい物が1条あるものの、これも後世の改変の可能性もある。

五の宮神社 本丸 腰曲輪

恒広(常広)城

鹿島市【最寄り駅】JR長崎本線肥前鹿島駅

天正4年(1576)有馬氏の横造城を落城させ、手柄のあった鍋島信房に修復させ、 城主となった。慶長16年(1611)鹿島2万石で鍋島忠茂が鹿島藩を起こし、 入城した。承応元年(1652)3代藩主鍋島直朝がこの恒広城を築城した。 文化4年(1807)に鹿島城に移るまで館として機能した。
現在は北鹿島小学校の敷地となっており、遺構はない。 校門(左画像)横に石碑が立つ(右画像)。

校門 石碑

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