築城時期は不明で、南北朝初期は一色範氏が、後期に宮方の菊池武安が在城した。
仁比山神社の南側、小渕の辺りから登って行くと、どうやら本丸ではないようだが、
出丸に辿り着いた。山頂は巨岩があり、腰曲輪が数段あり、若干石塁が残っている。
『肥前戦国武将史』によれば、
本丸や二の丸は稲荷神社から行けるとのことだが、再挑戦せねばなるまい。
仁比山神社の北側にある山。すぐの尾根に堀切らしい跡がある(下段左)。
山頂まで左回りで登り、シダの生い茂る道を下ったところに堀切が1本ある。
前田氏の居城。前田志摩守尚忠・伊予守純忠(家定)親子はもともと有馬氏に従っていたが、
丹坂の戦いで有馬氏が龍造寺氏に敗れた永禄5年(1562)、
佐留志に派遣されていた代官高場新右衛門を切り、龍造寺側に寝返った。
その後、家定は隆信に従い、活躍した。
朝鮮出兵で前田利家に同姓のよしみから親しくしたところ、
主君である鍋島直正から咎められ、その後も一悶着あって、誅伐された。
領地は、息子の甚右衛門と右馬允に分け与えられた。
現在は、田に整備されてかつての面影は、クリークだけになっている。
『肥前戦国武将史』に載っている保育園も遺跡と化してしまい、
前田伊予守の供養塔が残る。
勝尾城の支城の1つで、鷹取城の東麓に位置する。
島備後守の築城ともいう。(肥前戦国武将史より)
詳らかな歴史は分らないが、
本丸の南側にある3連続で囲繞する空堀と土塁(右2画像)は圧巻で、
空堀は塹壕の役目を果たしていたようである。
本丸は周囲を空堀で囲まれ(中央画像)、
麓へ下ると、現在でも3mを越える空堀が残る(右端画像)。
また鷹取城へ向かう途中には、武家屋敷跡が残る。
勝尾城を攻めた島津氏の陣城という説もある。
流浪していた蒲田江城城主犬塚弾正忠鎮家(播磨守盛家)が天正4年(1576)2月に、
当時藤津を支配していた有馬氏を攻めるための前線基地として、
龍造寺隆信が築城させた。その後、藤津攻略に功を上げ、
120町余を賞与され、森岳城の城主となった。(現地案内板より)
現在は、五の宮神社(和銅年間に創建とされる)のままで、
20m強の小山を本丸とした城址である。
本丸は平坦面もあり(中央画像)、東側に数段段となっているが、
これは近代に神社がらみのもののような気がする。
一方、北側には1段腰曲輪がある(最右画像)。
こちらは、植林用の可能性も否定できない。
竪堀らしい物が1条あるものの、これも後世の改変の可能性もある。
天正4年(1576)有馬氏の横造城を落城させ、手柄のあった鍋島信房に修復させ、
城主となった。慶長16年(1611)鹿島2万石で鍋島忠茂が鹿島藩を起こし、
入城した。承応元年(1652)3代藩主鍋島直朝がこの恒広城を築城した。
文化4年(1807)に鹿島城に移るまで館として機能した。
現在は北鹿島小学校の敷地となっており、遺構はない。
校門(左画像)横に石碑が立つ(右画像)。
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