金剛山山頂より北西にある。寺院跡となり、遺構はよく分らない。
元弘2年(1332)に築城されたとされるが確証はない。
南大和を支配した、越智氏の支城であった。
天文年間に整備されたとされるが、越智城、貝吹山城の詰めの城であった。
その後、越智氏の大和支配が終わると、廃城となっていたが、
筒井順慶が天正12年(1584)に出城として再整備した。
天正13年(1585)郡山城城主豊臣秀長の重臣本多正俊が大修築した。
その後、寛永17年(1640)植村家政が城主となり、明治維新まで植村氏の居城であった。
幕末に五条を襲った、天誅組の襲撃を受けたが撃退した。
高取山の山頂を中心に多くの石垣が残る。ただ薮化して入り込みにくいエリアもある。
石垣だらけで重っくるしい雰囲気が漂う中、吉野口の先にある堀切は妙にほっとさせてくれる。
越智氏の越智城に対する詰めの城。
天文15年(1564)筒井順昭に明け渡し、奪回を試みるも失敗した。
松永久秀の手中に落ちた後、永禄9年(1566)越智伊予守が復帰した。
が、松永勢に度々攻められ再び明け渡した。
天正8年(1580)信長の一国破城令で廃城となった。
現在、貝吹山山頂を中心に南北に曲輪が残る。
北側は急斜面で草木が繁茂してよく分らないが、
南側は竹林が多く、道沿いに平坦地があることがよく分る。
現在は曽羽神社があり、遥拝所の北側は崖のようになり、池がある。 神社の本殿裏から南西に山が続くが、薮化していて、よく遺構は分らなかった。
北畠氏の宇陀三将沢氏の居城。室町初期に南朝方として活躍した。
永禄3年(1560)松永久秀に落城された。そして高山飛騨守図書(ダリヨ)が入城した。
その後、松永久秀の衰退に乗じて、沢氏が復帰した。
フロイスの日本史によれば、
『私たちが沢城に登ったところ、その城は非常に高い山の上にありますので、
まるで中空に浮かんでいるように思えました。』とあるようにフロイスも訪問し、
城内には小さいながらも教会があったことが見える。
現在、麓の沢から道が整備されているが、
本丸、二の丸ともに薮化されるに任させてある状態である。
この道は麓の下城からウマヤ谷へ続く道であるが、その途中から、
本丸へと続く古道も残っている(本丸直下で崩れてしまっているとか)。
出丸跡も薮化しかけていて正直見るべき所に困る城址であったが、
ウマヤ谷から急坂を登ると、出丸の突端で、堀切が2条残っている。
また、このウマヤ谷から北にも伊那佐山への道沿いに米山城が残っていたそうだが、
今回確認していない。
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