高梨氏の出城であろうか詳細は不明。
城山公園となっているが、展望台のある本丸の裏には、
堀切が2本残り、麓への道にも堀切は数条かすかに残る。
また曲輪の跡も尾根沿いに幾つか残っている。
戦国時代に高梨氏が平時の居館である、
高梨氏居館
に対応した戦時の要害である。
弘治年間(1555〜58)武田信玄の侵攻の前に、放棄された。
高梨氏居館跡の奥の東山公園から登山道が伸びており、
城の北側の斜面に出る。
すぐに曲輪が数段あり、堀切を挟んで本曲輪となる(最左画像)。
そこから深い堀切を挟んで(中央画像)、井戸跡のある曲輪となる(最右画像)。
この曲輪から尾根を南下すると堀切や曲輪が続き、
鎌ヶ嶽城へ至る。
鴨ヶ嶽城の南端に位置し、別城と把えるかどうかは疑問が残る。 鎌ヶ嶽城は自然地形が残る曲輪で、南側に土塁が残り、一部石塁も残る(左画像)。 その先に深い堀切があり、石が散乱している(右画像)。 その先には土橋があり、そこからは遺構はない。
南北朝時代、高梨時綱知行地として確認される山田郷小馬場という。(大系より)
高山村から中野市桜沢へ抜ける峠道の監視のための城だったと推測する。
雁田山の最高峰に位置する。
峠から本曲輪へかけて2本堀切が残る(上段左2、4画像)。
堀切の上部には、いずれも石塁の跡なのか石が転がる(上段左1、3画像)。
本曲輪は三角形で、三方が石塁で囲まれていたのだろうか、
石が散乱している(下段左1、2画像)。
虎口は雁田山への尾根に向けて開いており(下段最右画像)、
1段下って、曲輪があり、それ以降は後世の植林のための段が残る。
そこから登り返すと、すぐに千僧坊(雁田城の尾根上)に至る。
アイヌのチャシまたは、大和朝廷の東征時の柵の跡ともいわれる。
東條庄狩田郷の領守職、苅田式部大夫繁雅の居城とも。
室町時代、貞治6年(1367)荻野備後守常倫が築城した、
二十端城はこの城も含まれると云われる。
高梨氏との関わりが深く、永禄4年(1561)武田信玄が侵攻するまで、
支配地であった。
(現地案内板より)
雁田山の千僧坊から伸びる尾根の途中にある大城と、
その下部にある小城に分れている。
千僧坊から尾根を下ると、ところどころ堀切の跡らしい痕跡が数箇所ある。
しばらく行くと、大きな石を伴った堀切があり(最上段最左画像)、
ここから城内に入る。
計4条の堀切を経て、本曲輪に入る(最上段左2画像)。
本曲輪の千僧坊側には土塁が残り(最上段左4画像)、
北側には石塁が残る(最上段左3画像)。
小城へ下ると堀切が1条ある。
小城は3段の石塁で囲繞する曲輪からなる(中央段画像)。
やや違和感を感じる石塁であった。
麓には、福島正則の菩提寺である岩松寺があり、
戦国期には居館があったという。
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