現在、健御名方富命彦神別神社となり、 社の立つ曲輪が最高部にあり、本曲輪と思われる。 背後に土塁の跡らしい遺構があるが、その他遺構はよく分らない。
天文〜弘治年間(1532〜58)頃に木曽義康により築城されたと推測される。
天正12年(1584)小笠原貞慶に攻められ、木曽川対岸の上之段の館は焼かれ、
義昌はここに籠城した。
関ヶ原後は木曽代官となった山村氏が麓にある館を屋敷とした。(大系より)
現在は、山村代官屋敷の背後にある、城山に、本曲輪(右端画像)、二の曲輪、三の曲輪(左端画像)からなり、
それぞれの間に堀切が残る(2・3間左3、本・2間左4画像)。
また本曲輪から北には数段腰曲輪があり、三の曲輪の下った所にも堀切が残る(左2画像)。
大熊峠を掌握していた高梨日向守高朝の城で、文明16年(1485)に
留守を突かれ、同族の高梨刑部大輔政盛に城を取られている。
その後武田氏の侵攻の前に越後に逃れたために武田方の城になったようであるが、
弘治3年(1557)上杉謙信の川中島への出兵の際に奪回した。(大系より)
現在城址には、枡形集落の西に登山口があり、
獣除けの柵を開けて中に入ることができる。(柵は猿害を防ぐためだとか。)
本来は、城址の東側の稲沢から大手道があったようである。
登山道を登ると、ロープのある急斜面の後、腰曲輪らしい数段の切り岸が見られる(左端画像)。
山頂手前の坂は本来の大手口でないためか、強引に登らされる印象がある。
山頂部は、主郭(右端画像)と二郭からなり、二郭はやや藪化していた。
主郭には土塁で囲まれていたようであるが、大系に書かれてるほど
石塁を見かけることはなかった。主郭背後は急斜面の坂となっている。
鎌倉時代に山田四郎國政が枡形城とともに築いた。後に原氏が移り住み、
3代兵庫守(ママ)は天正6年3月枡形城が焼却し奥州に下ったという。
(現地案内板より)
現在真法寺となっており、境内の北西に土塁?らしい跡があった。
大系によれば、居館はここではなく、稲沢集落にあったと推測している。
城主須田満親は武田氏の侵攻の前に落城し、越後へ逃れた。
その後、海津城代なるなど復帰した。
慶長3年(1598)上杉家が会津に転封となるに伴い、廃城になった。
(現地案内板より)
麓の蓮生寺(下段左)が居館跡で、その北側にある、満龍寺(下段右)は須田満国の開基によるもので、
菩提寺になっている。
蓮生寺裏手からも登れるということだが、雨で急斜面を登るのは躊躇われ、
満龍寺裏から登った。急斜面を登り。
しばらく尾根を登って行くと、
腰曲輪のような段や堀切も見られる。
北西部の尾根と合流し、しばらく行くと、
堀切があり、案内板のある曲輪となる。
大きな堀切を挟み、その南側が主曲輪となっている。
北側の切岸は石塁で補強されている(左端画像)。
さらにその南側に大堀切が残り、圧巻である(右端画像)。
その南側にも段差のある腰曲輪が数段続き、堀切となる。
堀切の先は平たんとなり、もう少し行ってみようかというところで、
巨大なイノシシが2頭前を走って行ったので、ここまでとした。
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