天正年間(1573〜92)に築かれた、真田信綱の居館と伝わる。
土塁で囲まれた東から西へと傾斜を持つ居館跡で東と西に区切られている。
現在東曲輪には真田昌幸が勧請したと伝わる皇太神社があり、
西曲輪はつつじ園とグランドゴルフ場となっている。
大手口は南側にあり内枡形となっている。
搦め手は北側にある。また南東部にも虎口がある
北側を大沢川が流れ、天然の堀となっている。
北西部には厩跡と見られる土塁で囲まれたエリアもある。
真田氏が上田に出るための拠点にするために築城したと考えられている。
村上氏が海野氏を追い、天文年間(1532〜1555)ここを属城とした。
その後、天文19年(1550)武田信玄に攻められたが、それを敗った(戸石崩れ)。
しかし翌20年に真田幸隆により攻略された。
武田氏滅亡後も真田氏の属城として機能した。
米山城、砥石城、本城、枡形城と4つに分けられてあるが、
1つの城として機能していたと想像される。
一番南で低部に、砥石城の最前線的な位置にある。 背後の急な坂を登りきると石塁があり、本丸となる。 南に2、3段曲輪が残る。
米山城から北側へ急斜面を登り切った所に位置する。 背後を堀切で切ってある以外にさほど遺構は見られない(右画像)。
砥石城の堀切を下り、北へ行くと広い平坦地があり、 そこから数段も大規模な曲輪が続く。本丸下には石塁も残る(中央画像)。
本城の搦め手からしばらく進み最高部に登り切ると枡形城となる。 枡形というにはだいぶ痕跡も消えかかって普通の虎口に見える。 背後は同様に堀切で切ってあり、急斜面となっている。
鎌倉時代に小笠原氏の支族である伴野氏により築城された居館である。
以後、伴野氏の居館で、一時はここを中心に規模を拡大し、
野沢城となったが、前山城に本拠を移したために支城となった。
本能寺の変(天正10年[1582])後、北条氏により支配されたが、
徳川家康の命で依田信蕃により落城された。
現在は公園となり、南東部が破壊されてはいるが、
囲繞する土塁はよく残っている。
南西部に櫓があったようで一段高くなっている。
井上城主、井上満実の子為実が分家し、須田氏を名乗った。
弘治・永禄年間(1555〜70)武田信玄の侵攻の前に、武田氏に属し、
現地に残った信濃須田家と上杉氏を頼った越後須田家に分裂した。
信濃須田家は、武田氏滅亡後、上杉氏に従うことになったが、
天正13年(1585)に上杉景勝に滅ぼされた。
その後、越後須田家の満親が帰国し、上杉氏家臣として活躍した。
慶長3年(1598)上杉氏の会津への転封に伴い、廃城となったと推測される。
(参考:現地案内板と大系)
現在は臥龍公園の南側、小高い山の山頂に位置する。
堀を挟んだ南北2つの曲輪からなる。北側の方が本郭と推測される(右画像)。
堀は通路になっており、北へ枡形のようになっており、石塁が見られる(中央画像)。
また北側と西側には腰曲輪が残っている。
平安時代から中野氏が本拠としていた。
その後、井上氏の一族盛光が高梨氏の祖となり、
高梨氏は次第に勢力を蓄え、
永正年間(1504〜21)に当地を治めるようになったと推測されている。
武田信玄の侵攻の前に、
上杉方の飯山城に逃れた。
天正10年(1582)上杉景勝が川中島を領すると、
高梨弥五郎(頼親)は安源寺を得、その後、当地に入った。
慶長3年(1598)景勝が会津へ転封となり、廃城となった。
現在は公園化され、遺構はよく残っている。
周囲を空堀・土塁でで囲み(左画像)、東側に1つ、西側に2つ虎口があったようである。
大系では、東西南にそれぞれ1つずつ虎口が書かれてあるが、
発掘前の状態で、廃城後、住居となっていたために改変されたのだろう。
南東側には庭園跡もあり(右画像)、その他建物跡だけで8つ発掘されている(中央画像)。
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