詳細な歴史は分らない。松岡氏の支城であったか。
農園となっており遺構は残っていないようで、標識のみ立っている。
松岡氏の見張りの小城と推定されている。(現地案内板より)
道路拡張により遺構は削られてしまったようである。
道路の西側の畑に曲輪の跡らしい構造が残っている。
一方、竪堀等は網の外であったので確認していない。
平成7年の発掘調査では柱穴など検出されたらしい。
詳らかな歴史は分らないが、並木沢を挟んだ南城に対し、居住的要素が強いと、 南城の案内板にある。小学校(左端画像)や保育園となっており、 遺構は、耕雲寺裏手に空堀らしい跡(右端画像)と、 土塁跡という石碑の横に土塁らしい薮の塊(中央画像)がある。
戦国時代末期、織田軍の侵攻に備えて、
もしくは徳川氏の勢力下で豊臣方に備えたと説があるが、明かでない。
(現地案内板より)
麻績神社の裏手に位置する。
河岸段丘の崖を利用している。
中央に大きな堀切(右端画像)を備え、東西に曲輪が残る。
本曲輪(左端画像)は空堀の東に位置し、虎口(中央画像)や土塁など残る。
元和5年(1619)転封となった福島正則が、
高井郡2万石、越後魚沼郡2万5千石の捨扶持をもらい、ここに居住した。
寛永元年(1624)7月13日64歳で病没した。
現在は天明5年(1785)にここに高井寺が移って現存する。
土塁や空堀は安政年間(1854〜60)に崩され、土塁が民家の敷地の中に一部残っている。
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