永正年間(1504〜21)に甲斐大和守親宣、親直(宗運)父子の居城であった。
阿蘇惟豊が、兄の惟長との家督争いに敗れ、これを庇護した。
その後、永正14年(1517)に惟長の浜ノ館を攻め、惟豊は阿蘇大宮司職を復権した。
宗運はここで幼少期を過ごし、天文5年(1536)木倉の戦いで御船房行を討ち、御船城主となった。
(現地説明版より)
馬見原を南下し、五ヶ瀬川を渡った、秋葉神社が城址である。
神社の小さい社があるだけで遺構は残っていないようである。
永禄年間(1558〜70)の頃、伊東氏48城の1つで、肥田木四郎左衛門尉が城主だった。(大系より)
野尻湖の西側、国道268の野尻大橋を渡った所にデカデカと看板がその存在を主張している。
入口にはしっかり標識があるのだが、そこから先はほったらかしである。
草が繁茂しまくっており、一部空堀のような跡があり、郭が区分けされているように見える。
元弘年間に足利尊氏の妻赤橋氏の領地となると、
南朝方であった伊東氏の支族伊東藤内左衛門祐広が建武2年(1335)12月24日に落城させたが、
5日後には北朝方の土持宣栄が追い払った。
正平7年4月に尊氏の代官として日向に来ていた畠山修理亮直顕は足利直冬に味方し、
ここに拠った。正平13年に菊池武光が攻めて直顕は逃げた。
その後伊東氏が領するも応永年間(1394〜1428)に島津元久が日向に侵入し、子(弟?)の久豊に守らせた。
城内で島津忠国が誕生した。
しかし文安2年(1445)伊東氏が奪い返し、落合冶部少輔を城主とした。
それ以後は落合氏の居城であったが、伊東氏が北走した後は、島津領となり、
樺山兵部大輔規久を城主としたが、慶長4年(1599)からは川田大膳亮国鏡を地頭とした。
元和元年(1615)に廃城となった。(大系と現地説明資料より)
国指定の遺跡にしては標識も少なく地味な印象がある。
旧穆佐小学校内にガイダンス施設がある。
主郭を中心に左右にそれぞれA・B地区、C・D地区の広大な郭が残っている。
残念ながら、2019年5月段階で昨年の台風の影響で主郭が被害を被ったらしく立ち入り禁止になっていた。
東側のA地区は規模の大きな空堀で郭を分け郭自体の面性は広くない。B地区は島津忠国誕生杉もあり、
居城空間だったのか削平された大小の郭が数段残っているが、立ち入れない。
一方、主郭と巨大空堀を挟んだ西側には家臣団が住んだと想像されるC地区となる。北側に土塁が残っているが、
郭内は藪化している(狸もいた)。
北側に現在は道路なった空堀を挟んで、ビタミンの父である高木兼寛を憲章した公園となっているが、
その北側は郭で、かなり藪化しており、北端から東にかけて横堀が走っているらしいのだが、北端だけは確認できた。。
双石山から続く尾根の端部にある。
古くから「じょうやま」と呼ばれていた。宮崎市文化財課の調査により、
郭や空堀が確認されている。城の名前や築城年代については不明である。(現地説明版より)
電波塔がありそのおかげで開けているが、遺構は良く分からない。
歴史的な詳細は不明。
うのこの滝に向かう途中に標注がある。
三ヶ所川の蛇行する部分に位置する。
やや荒れた斜面を登ると藪で、うっすらと踏み跡があり、強引に進むと、
最初の堀切がある。さらに藪を進むとさらに深い堀切があり、堀切はそのまま竪掘となって南北に落ちる。
そこから一段上がった辺りが最高点で主郭らしいが、藪だらけで引き返した。
後日宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書の縄張り図を見ると見るべき所はある程度押さえたことを確認できた。
城跡であるかははっきりしないが、番所という標柱があり、 国道218号線から下のうのこの滝へ向かう道路まで切岸のような郭が数段あり、 最下段は椎茸のほだ木が並べられていた。 川曲城とは三ヶ所川の対岸(左岸)に位置する。
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