永禄7年(1564)5月加世田より島津忠平(義弘)が北原氏の
徳満城の支城であった、久藤城を補修し、
「中城」「新城」を加え、加久藤城と名付けた。
同年11月17日北原兼親が伊集院に移封されると同時に飯野城に移り、
5男1女をもつ広瀬夫人を住まわせ、
川上三河守忠智を城将とした。
元亀3年(1572)伊東軍が攻め寄せた時は「鑰掛口」において戦われた。
長男、鶴寿丸は天正4年(1576)7歳(or8歳)で死去、城内に葬られ、その後現在墓のある不動寺跡に移され、
菩提所として飯野に幻生寺が建てられた。(えびの市の城館跡・現地説明版より)
主郭は竈門神社の境内となっており(左2画像)、西側にうっすらと土塁?の跡が残る。
参道と反対側が二ノ丸で、北側に土塁が残る(左3画像)。
北東にある新城へ行ってみたが、藪だらけの原のようになっていて引き返した。
主郭の西側には切岸らしい跡は残る。
また登城戸路の南側に土塁が残っている(右端画像)。
永暦元年(1160)真幸院の収納使・日下部重貞が築城し、
康永4年(1345)北原兼幸の居城となった。
永禄7年(1564)島津忠平(義弘)が城主となった。
元和元年(1615)一国一城令により廃城となった。
(えびの市の城館跡・現地説明版より)
主郭周辺はブルドーザーにより整地されたらしく、東南部に土塁らしき跡が残る(左3画像)。
主郭の南側には枡形という曲輪と物見曲輪があり、展望台となっている。
一方、主郭の東側の射場の背後の藪を掻き分け東へ登ると、南東に位置する、二ノ丸への登り口がある。
ここを登ると平虎口となって二ノ丸であるが(左4画像)、藪っていて何もわからない。
一方下へ下りさらに東へ登ると北に位置する三ノ丸への登り口があり、
虎口ははっきりしないが登り道は若干残っていた。
三ノ丸の北側には土塁らしい跡が残っているが(右端画像)、ここも藪っている。
永禄年間(1558〜70)三田井親武が築城した。
文禄元年(1592)松尾城主の高橋元種が攻め、三田井氏を滅亡させた。(大系より)
現在、高千穂高校の裏手、国道218号線の北側に城址の案内標識がある
(が、城そのものの標識はない)。
北側は水道施設で破壊されており、南側に祠などあり、郭らしい雰囲気だけ残っている。
旧北方町の廃校になった、早上の城小学校の裏手の山である。 城址であるという確証はない。 山頂まで山道があり(最左画像)、山頂部は岩石がむき出している。 山頂部はかなり広く、むしろ広すぎる感がある。 北側には土塁らしい跡もあり(中央画像)、腰郭らしい平坦地もある(右2画像)。また、 南北は崖状で、唯一西へ尾根が伸びており、なんとなく堀切らしい雰囲気が残っている(最右画像)。 南西部には平虎口らしい跡も残っている。
建武4年(1337)日向国の地頭職であった、伊東祐持が伊豆から下向し、居城し、その子祐重の時に改築したと伝わる。
その後、伊東氏の本城として機能し続けたが、永正元年(1504)尹祐の時に失火し、佐土原城と宮崎城に移り住むようになった。
その子、義祐は初めから佐土原城と宮崎城に住み、子の義益をここに置き、義益の死後はその子の義賢を置いた。
しかし天正5年(1577)義祐が島津氏に敗れ、豊後に逃げた後は島津氏の持ち城となり、
鎌田政親が城主となった。天正15年(1587)に秀吉が島津氏を征伐すると、佐土原藩の領地となり、
元和元年(1615)一国一城令で廃城になった。(大系より)
西を流れる三財川側からは急峻な崖の上に位置する。
主郭は郭群の東に位置し、御子彦火々出見尊の御陵である日向高屋山上陵と伝わる古墳の跡が残る。
また主郭の北側には土塁があり、南側にも土塁で区画分けされている。
周囲を土塁で囲まれ、東に階段、西と南に平虎口となっている。
空堀を挟んで北側に奥の城があり、奥方や侍女を始めとして家族の住居であった。
主郭の西側には、中央に位置する二の郭で、東側、主郭側に今も5m近い土塁が残り圧巻である。
一方、西側の三の郭側には土塁は残っていない。
三の郭(斥候城とも)は東側に土塁が残り、北西部にかけて三財川を見下ろし、見晴らしが良い。
その南側に西の城が残る。
都於郡城の南側には向の城と南城が残るが、遺構らしい物はなかった。
その他にも支城はあったが、時間の制約で見られなかったのが心残りである。
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