高千穂48塁の1つで、三田井氏家臣の富高弥十郎長義が城主と伝わる。
高橋元種に落城された。(宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書より)
立ち入り禁止なのか、柵で塞がれて中に入れない状態だった。手前の田んぼとなっている所が堀切の跡か。
歴史的な詳細は不明。
竹脇城桜公園の案内板の指示通りに登ると、見晴らしの良い金比羅神社があり、
そこが城址である。遺構は良く分からない。
宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書にも未掲載である。
三田井氏の本城であった。天正19年(1591)高橋元種により落城され、滅亡した。
(宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書)
現在はキャンプ場となっており、石碑が立っており、郭らしい、地形も残るが、後世の開墾も否定できないようだ。
歴史的詳細は不明。松尾城と関連性があるのか。
山頂に個人作の石碑がある。遺構としては、切岸があるくらいで、
その切岸自体も当時の物かは判然としない。
伊東氏の支族曽井氏の曽井左近将監祐栄の孫六郎三郎祐善により天授年間(1375〜81)に築城されたと推測されている。
その後、伊東氏に背いて島津氏に寝返ったが、応永19年(1412)伊東祐立により抑えられた。
その後再び背き島津氏に従ったので、祐立の子祐堯により落城され、伊東四十八城の1つとなった。
天正5年(1577)伊東義祐が島津氏に敗れた後は、島津氏の城となり、比志島式部大輔義知が城主であった。
秀吉の九州征伐後は、伊東祐兵が城主となり、黒田孝高が改修工事を行った。
翌年祐兵は飫肥に移り、川崎権助が城主となったが、朝鮮の役で亡くなった。元和元年(1615)の一国一城令で廃城になった。
昭和39年に病院建設により遺構はほぼ消滅した。(大系と現地説明版より)
病院敷地内に令和3年製の説明版がある。
曽井公民館裏に階段跡と「殿様の池」が残る。
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