、足利義昭が三好三人衆に本圀寺を襲われたので、
永禄12年(1569)信長が築城した。
正月に作り始め4月には義昭が入城する程の突貫工事であった。
天正元年(1573)室町幕府滅亡後、安土城築城のために解体され移建された。
地下鉄烏丸線工事の際に石垣や堀が見付かった。
現在、平安女学院の角に碑が立つのみである。すぐ近くに足利義輝屋敷跡もある。
尚、石垣が二条城城内に陳列?されてある。
鎌倉時代後期に建立された妙顕寺(日蓮宗)が秀吉の命令で北に移築され、
天正11年(1583)に築城し、天正14年聚楽第に移り廃城となった。
妙顕寺の頃から城郭化されていたようで、
その後秀吉の改修後、天守も存在したという。前田玄以が城番であった。
現在の古城町辺りであり、遺構はなにもない。
場所からして、渡辺氏の居城か。浅井・朝倉勢の陣城か?
修学院の東、雲母坂を登った、標高340m辺りに規模は小さいが、
本丸があり、1段西に下って二の丸がある。
また本丸の東側には腰曲輪の跡が残る。
北にはいずれも土塁が残る。
登山道の途中から古道を示す?赤いハンカチが本丸まで付けられてあるので、
比較的見付けやすい。
勝軍山城と相呼応して志賀越を押えていた。
天文18年(1549)足利義晴が築城させた。
翌年、義輝がここを守ったが、三好長慶に攻められ落城した。
大文字山の北側の280mの山を中心に残っている。
本丸の南側に堀切があり、さらに南に堀切を利用した京都側からの入口がある。
朝鮮学校の辺りまで城域だったようだ。
本来は本願寺の宗教目的の道場であったようだが、
いつしか要塞化され、寺内町を土塁と堀で囲む城的な要素を帯びることとなったが、
細川晴元、延暦寺宗徒、六角氏、法華一揆に攻められ、
天文元年(1532)陥落し、大坂の石山に移った。
現在は、御土居(土塁)が3箇所余り残るだけであるが、
山科中央公園の土塁(画像左端)はかなりの高さで人工物とは思えなかった。
昔はさらに新幹線を越えた南の辺りまで土塁が残っていたようだが、
住宅が建てられ、石碑と説明板が残るだけである(画像中央)。
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