慶長7年(1602)京都所司代板倉勝重の下、畿内の大名の造営費をもって築城した。
家光の上洛後は衰微を辿り、寛延3年(1750)落雷により天守閣が焼失した。
天明8年(1788)には市中の火事から飛び火し類焼した。
慶応2年(1867)に徳川慶喜が大政奉還を行った。
現在は、世界文化遺産登録もされ二の丸御殿は国宝である。
鎌倉時代に、法華山寺(峰ヶ堂)が建立された。
が、位置的な重要性からか、山城となり、
そのうち細川晴元の西岡支配の拠点となった。
唐櫃越のすぐ南に位置する。電波塔や三角点がある所は、
本丸らしく、直下に堀切もあり、狭いながらも腰曲輪も数段ある。
また、寺院跡の辺りには、堀切や土塁もある。
唐櫃越を監視するにはうってつけの城であったのであろう。
佐竹源氏の後裔である革嶋氏の居館。
鎌倉時代初期に近衛家から革嶋荘の下司職に補任され、革嶋氏を称した。
三好三人衆の岩成友通によって追い出され、
鶏冠井氏が入るも、信長の上洛により復帰した。
本能寺の変後山崎の合戦で、明智光秀に加担したがために没落したが、
江戸時代に入り再び当地に於いて再興した。
現在は、革嶋春日社や三宮神社は残っているが、城址らしい跡はほとんどなく、
駐車場となったり薮化している。
地理的には、山陰道の近くである。
城主は上羽氏という説もあるが、不明。
堀と土塁があるが、竹薮となっており、遺構も範囲が狭く、
当時の城が容易に想像できない。
城主など不明。
善峰川のすぐ南岸に位置し、土塁があり、幅の広い空堀が残っている。
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