関ケ原の戦いの際に領主であった細川氏時代の宮津城は廃城となっていた。
その後に京極氏が田辺城に入った。
田辺城城主の京極高知の没後、元和8年(1622)丹後を3分し、高廣が宮津に入った。
その後、寛永2年(1625)にある程度再建が完成し、その後も十数年工事は続いた。
京極氏の後は、幕府領になり、永井氏、再び幕府領、阿部氏、奥平氏、青山氏、
本庄氏と続き明治維新を迎えた。
昭和55年より発掘調査が始まり、2006年第13次調査があった。
大手川の改修工事に伴うもので、
三の丸南西隅にあった切戸門口の枡形の石塁と土塁等(左端1,2画像)が発掘された。
宮津小学校に太鼓門が残っており(今回見ていない)、その他に石が残っているだけである。
山田氏が築城し、稲富と改姓した。
明智光秀により宮津を細川氏に明け渡し弓木城に移った一色満信(義俊)が、
宮津城で謀殺された後細川氏に攻められ、防戦した後開城した。
現在は水無月神社の御輿庫が本丸の最高地点にあり、
麓から祭のためか?一直線の急斜面が本丸まで掘られていた。
本丸の北西には副郭(左端)があるくらいで、
その他腰曲輪らしい物はあるが、
遺構らしい遺構はないと思っていたが、
本丸から北北西に曲輪が続いていたようである。
嘉慶2年(1388)一色詮範が築城したという。
その後、一色氏家臣の吉原氏が勢力を伸ばした。
が天正8年(1580)明智光秀・細川藤孝に時の城主吉原西雲は征伐された。
藤孝の次男興元が嶺山と名付け、領主となったが、
細川氏の豊前への転封で京極氏の領地となり、
京極高知の没後、元和10年(1624)高通が領主となり峰山と改め、
廃城として陣屋に移り、
以後京極氏が明治維新まで続いた。
権現山へ麓から登山道が2本あり(大手道と参道)、大手道をしばらく行くと、
曲輪に出て、画像左端の堀切を迎える。ここを登り切ると、
三の丸(画像左2)に出る。三の丸には帯曲輪が1段ある。
先程の道をさらに回り込むように進むと切り通し(参道)と合流し、
本丸、二の丸への四叉路となる。本丸には現在も権現社があり、その東側にも1段下って曲輪がある。
一方二の丸は広い平坦地なって北側が若干微高地となっている(画像左3)。
参道を下ると腰曲輪(画像右端)を過ぎ、やや独立した善明砦(曲輪)がある。
大野道犬とその子ら(治長、治房、治胤[道犬])の出生地という。
また道犬の武功と大蔵局が淀君の乳母であったことから秀吉に1万石を与えられたという。
現在は大野神社が本丸に位置し、その周りに帯曲輪だったのだろうか平坦地が取り囲んでいる。
また北側に当時の物か判断しかねるが、腰曲輪のような段が数段見られる(右端画像)。
本丸直下に大きな古い石も転がっている。
平安時代末期に木津氏により築城された。
文明年間(1469-1487)木津氏が拠ったことが文献に出て、
その後、永禄年間(1558-1570)までの間は不明とのこと。
永禄11年(1568)多聞院の等春と少太郎が三好政康に攻められ、鹿背山に逃げ込んだ。
そのことから松永久秀の居城として推定されている。
現在は、西念寺脇から丁寧な標識があり、まず迷うことはない。
北西から南東へと主郭3つが続く、大規模な城址である。
西念寺から大手道を登って行くと、枡形虎口(左端画像)のある主郭Iで、
南東部に櫓跡と推定される微高地がある。
主郭Iの大手と反対側には井戸が残る。
この主郭Iと北西の尾根との間には堀切2本と土橋(左2画像)がある。
また下に広がる腰曲輪には数本の畝状竪堀が残る(左3画像)。
主郭Iより南東側に堀切を挟んで主郭IIがある。
さらに堀切を挟んで主郭IIIとなる。
主郭IIIの裏側にも明瞭ではないが、数本の畝状竪堀が残る。
西念寺から主郭Iへと登る道2本はいずれも谷を行く道であるが、
その谷部にも数段の平坦地が続く。
『木津の文化財と緑を守る会』による標識とメインコースとサブコースの整備のおかげで、
木津町史の鹿背山城の縄張り図を携行すれば、ほぼ全貌が掴める。
登城時には西念寺での記帳を忘れずに。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。