応仁の乱の際に西軍、大内政弘、山名教之が布陣した。
さらに永正8年(1511)細川氏との内紛から京都から離れていた義尹(義材)が、
細川高国らと、ここにいた細川澄元と細川政賢を攻め、京都を奪回した。
現在は建勲神社があり、その裏手は神域となっていて中に入れない。
北側の公園に横堀と土塁が長い距離で残っている。
小倉山城主山本氏の別城。
天正元年(1573)信長の命により明智軍に落城された。
信長公記巻6(天正元年7月)に、
『山本対馬守静原山に取出を構へ、御敵として居城なり。』とあり、
8月には
『京都静原山に楯籠候御敵山本対馬、明智十兵衛調略を以て生害させ、頸を北伊勢東別所まで持来り進上』
とある。
現在静原の裏手にある標高480mの山に本丸がある。
縄張りは以下の画像(記憶が定かでないため正確性に欠ける)の通りで、
西側から登ると、堀切があり、本丸となる。こちら側が搦手と思われる。
大手口は南にかけてで、
本丸の東側から南側にかけて石塁を使った虎口も残っている。
そこから南側に標高を下げるに従って道が残り、
少し行った微高地は出丸と思われる。
虎口の作り方から見ると、信長方の城として機能したとも想像される。
山本氏の居館。永禄年間、信長により落城された。
南北に2つ曲輪の跡がうっすらと残る。
その2つの曲輪との間の東側に虎口らしき跡があるが、
後世の物かもしれない。さらに残念なことに東側は宅地造成で、
破壊されている。
渡辺氏の居館跡。現在は民家となっているが、その子孫の方か。
民家なので外観しか分らないが、今でも土塁などが残っている。
足利義輝が一時籠城した。
本丸を中心に2段くらいの帯曲輪、さらに東側にかけて2段腰曲輪が存在する。
すぐ近くにある鑓磨岩城と思しき箇所にも行ったが、
うっすらと痕跡があるかないかではっきりしない。
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