山城・丹波(京都)・丹後8



船岡山城静原城小倉山城宮内少輔城堂ノ庭城

船岡山城

N35.02'20''70, E135.44'30''29
京都市

応仁の乱の際に西軍、大内政弘、山名教之が布陣した。 さらに永正8年(1511)細川氏との内紛から京都から離れていた義尹(義材)が、 細川高国らと、ここにいた細川澄元と細川政賢を攻め、京都を奪回した。
現在は建勲神社があり、その裏手は神域となっていて中に入れない。 北側の公園に横堀と土塁が長い距離で残っている。

応仁永正合戦碑 横堀1 横堀2

静原城

N35.07'00''40, E135.47'26''96
京都市【最寄り駅】叡山鉄道鞍馬駅

小倉山城主山本氏の別城。 天正元年(1573)信長の命により明智軍に落城された。 信長公記巻6(天正元年7月)に、 『山本対馬守静原山に取出を構へ、御敵として居城なり。』とあり、 8月には 『京都静原山に楯籠候御敵山本対馬、明智十兵衛調略を以て生害させ、頸を北伊勢東別所まで持来り進上』 とある。
現在静原の裏手にある標高480mの山に本丸がある。 縄張りは以下の画像(記憶が定かでないため正確性に欠ける)の通りで、 西側から登ると、堀切があり、本丸となる。こちら側が搦手と思われる。 大手口は南にかけてで、 本丸の東側から南側にかけて石塁を使った虎口も残っている。 そこから南側に標高を下げるに従って道が残り、 少し行った微高地は出丸と思われる。 虎口の作り方から見ると、信長方の城として機能したとも想像される。

虎口 堀切 切岸 縄張り図

小倉山城

N35.04'48''11, E135.47'14''24
京都市【最寄り駅】叡山鉄道岩倉駅

山本氏の居館。永禄年間、信長により落城された。
南北に2つ曲輪の跡がうっすらと残る。 その2つの曲輪との間の東側に虎口らしき跡があるが、 後世の物かもしれない。さらに残念なことに東側は宅地造成で、 破壊されている。

南側曲輪1 北側曲輪土塁 南側曲輪2

宮内少輔城

N35.02'46''25, E135.47'41''52
京都市【最寄り駅】叡山鉄道一乗寺駅・修学院駅

渡辺氏の居館跡。現在は民家となっているが、その子孫の方か。
民家なので外観しか分らないが、今でも土塁などが残っている。


堂ノ庭城

N35.04'38''94, E135.43'09''67
京都市

足利義輝が一時籠城した。
本丸を中心に2段くらいの帯曲輪、さらに東側にかけて2段腰曲輪が存在する。 すぐ近くにある鑓磨岩城と思しき箇所にも行ったが、 うっすらと痕跡があるかないかではっきりしない。

横堀 曲輪


前へ 次へ

このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。


戻る