西岡被官人の中でも盟主的存在である国人、神足氏が城主。 その後、 細川藤孝が勝竜寺城の城主となった際に、 屋敷として組み込んだ。 現在は、神足神社となっていて、勝竜寺城の頃の土塁の跡が綺麗に残る。
戦国時代初期に細川氏により築城される。その後、岩成友通が城主。 秀吉が淀君のために築城したのは、この旧淀城である。 現在は、妙教寺となっていて境内に、この碑があるだけである。
守護代内藤氏が拠点とした丹波国守護所であった。
天文7年(1537)城主内藤国貞の時、細川晴元の軍、波多野秀忠、
三好政長に攻められ、落城した。国貞は、三好長慶方に属き、
晴元に抵抗したが、敗死した。その後、松永久秀の弟、
内藤宗勝(松永長頼)が守護代の後見人として実権を握った。
その後、内藤ジョアンが城主となったが、
天正3年(1575)に信長軍の明智光秀に攻められ落城したという。
その後、明智支配下で使われた可能性もあるという。
現在も、城山一帯に多くの曲輪の跡が残る。
戦国期後期のように防備性に優れるようには見受けられなかったが、
規模の大きい城址である。
明応8年(1499)、赤沢氏のよって破壊された。
足利氏家臣真木島氏の居城。
元亀4年(1573)、足利義昭が京から真木島昭光を頼りに落ちのびて来たが、
信長軍の前にあえなく落城し、昭光ともども義昭は河内へと逃げ、
室町幕府は終焉を迎えた。城自体は、翌年廃城になったという。
秀吉による堤の築造や宇治川の改修で遺構は全くなくなってしまった。
元弘元年(1331)後醍醐天皇が笠置寺に行幸し、本堂を行在所とし、
鎌倉幕府軍と戦ったが、堂宇は炎上し、落城した。戦国期には、
山城国守護代木沢長政が城として利用した。
平成17年の発掘調査では、後醍醐天皇の頃に作られた、
南部の柳生からの道を防ぐための土塁と堀が確認された。
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