元和5年(1619)伏見城廃城に伴い、秀忠の命で、松平定綱に築城させた。
秀忠、家光の頃は上京の際に宿所とし、その後、寛永10年(1633)に、
永井尚政が入り、城主は度々代わり、享保8年(1723)に稲葉正知が入ってからは、
稲葉家が明治維新まで城主であった。
現在は、京都競馬場の目と鼻の先にある。
石垣と堀が残る。
南北朝の頃、北朝方の細川頼春が築城したという。
応仁・文明の乱で、畠山義就の拠点となった。
その後、信長の命で、細川藤孝が入り、
神足城なども含めて、築城し直した。
明智光秀が山崎で形勢が不利になった後に入った城。
その後、秀吉軍の前に落城。
遺跡を利用して公園化されている。
堀や土塁の跡、曲輪である沼田丸などが残る。
羽柴秀吉と明智光秀による天王山(山崎)の戦いとして有名。
標高270.4mと低い山ではあるが、 この山を制した羽柴軍が勝利し、
明智軍は勝竜寺城へ逃げ込み、
坂本城まで引き上げる途中、明智光秀は小栗栖で武者狩りに遭った。
その後、秀吉が天守閣を築いた。
現在はハイキングコースとして多くの人が経由する土地であるよう。
頂上付近になると曲輪の跡や石塁等が見受けられる。
明智光秀が山陰地方攻略の為に築城。本能寺の変の直前にここで待機していた。
現在は大正時代に荒れていた城址を購入した某宗教団体のものとなっており、
天守閣跡には許可がいる模様。
亀岡市は何をやっていたのか疑問が残る
(しかも看板も駅から付いているものの途中で途切れる始末。)。
荒木山城守氏綱がいた薗部城もここと推定される。
天正6年(1578)明智光秀が、滝川一益・丹羽長秀と丹波に侵入し、
落城させた。
出石の小出義(吉)親が出石から園部藩として入り、元和7年(1621)に築城完成した。
さらに戊辰戦争の後、明治新政府から整備するように云われ1869年に三層の櫓等を築いた。
しかし1872年に取り壊された。
現在は園部公園、園部高校となっている。
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