渡辺氏の居城という。
現在は1979年からの宅地開発で完全に姿を消しているが、
その直前の発掘調査では、東西に長い構造であったらしい。
遺物から16世紀中〜後半と推定されるようだが、
堀切などはなかったとのことである。
大葉台の城山公園に石碑と説明板が立つのみであるが、
実際の城址は公園よりもやや北側にあったようである。
井内氏の居城であったという。
城址の北側と西側が柵で囲まれているために、東側から入ったが、
ほとんど人も来ないようで薮化している。
谷のような所を西に行くと『新修亀岡市史』にある縄張り図の云う曲輪IIまで続く、
尾根に出る。この尾根道には堀切が数本ある。
尾根道が尽きた所に東西に横堀兼通路があり、2m弱の土塁があり、曲輪IIとなる。
ここより北に土塁を隔てて曲輪Iがある。
また曲輪IIより東に行くと、曲輪III、IVと余り高低差はなく、
曲輪IVの南面に、この城址の見所であろう、虎口が残っている。
この虎口は外に突き出て、折れ曲がって下の横堀に下り、さらに折れ曲がって横堀に出る、
構造をしている。
この構造や竪堀から、法貴山城と類似していることから明智時代と推測されている。
完全に薮化した山であったので、帰路を失うリスクを考慮しすぎ、
丹念に見ることが出来ず残念だった。薮や木々を取っぱらえば素晴しい城址になりうる。
細川高国が、神尾山城に籠る弟・柳本賢治を細川尹賢らに攻めさせたが失敗した。
また明智光秀が八上城攻めの中継地として利用したと云われる「木目の城」とのこと。
光秀時代には野々口西蔵坊が城主であったという。
金輪寺の裏手に存在する大規模な城址である。
高低差を利用した規模の大きな数段の曲輪(左端画像)が堀切(左2画像)を挟んだりして続き、
山頂部は土塁などを使って曲輪を分けている。
『新修亀岡市史』の縄張り図で云う曲輪Iの西側には、虎口が残り、その下部には、
やや痕跡が薄くなりつつも畝状竪堀がある。
曲輪IIIとIVを仕切る土塁は石塁も用いていたようだが、だいぶ崩壊してしまっていた。
この山頂部に出る手前(曲輪Vの横)には石塁が残っている(左3画像)。
どの曲輪も西側に土塁が築かれ、東側を通路としてあった。
城内はやや薮化しており(特に曲輪I)見づらい箇所もあったが、
全体的に金輪寺からは迷うことなく道が続いており、見易かった。
天正年間(1573〜1592)に使用されたと伝わる。
麓から登って行くと、堀切に出て、土塁がある。
城域はさほどは広くはなく、すぐに土塁(左画像)となる。
曲輪内は木々が繁茂し荒れていてよく把握できなかった。
土塁と土塁の間の通路の北側には枡形虎口(右画像)が残る。
太田城址である松井八幡宮の裏手からの道を登ると、 ノミで割った石の跡があった(左端画像)。 さらに登ると、野面積みの石塁が多々残っている。 亀山城の築城の際にもここから石を持っていったと云うことだが、 それと関係があるのか。 寺院跡でもなさそうであるし、 湖南市にある三雲城を彷彿とさせる。 太田山城では全く石塁を使ってないことを考慮すると関係ない、 後世の物のか。
松井氏の居城。
現在松井八幡宮がある境内が城址。
本殿がある所が最高地点で本丸跡で東西に曲輪が残る。
本丸の北側には浅い堀切があって曲輪があり、
その北側に現在通路となっている堀切がある。
この堀切については『新修亀岡市史』では、
他も含めて改変の可能性も示唆している。
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