山城・丹波(京都)・丹後11



浄法寺城井内城神尾山城太田山城太田城

浄法寺城


亀岡市

渡辺氏の居城という。 現在は1979年からの宅地開発で完全に姿を消しているが、 その直前の発掘調査では、東西に長い構造であったらしい。 遺物から16世紀中〜後半と推定されるようだが、 堀切などはなかったとのことである。
大葉台の城山公園に石碑と説明板が立つのみであるが、 実際の城址は公園よりもやや北側にあったようである。

石碑

井内城


亀岡市

井内氏の居城であったという。
城址の北側と西側が柵で囲まれているために、東側から入ったが、 ほとんど人も来ないようで薮化している。 谷のような所を西に行くと『新修亀岡市史』にある縄張り図の云う曲輪IIまで続く、 尾根に出る。この尾根道には堀切が数本ある。 尾根道が尽きた所に東西に横堀兼通路があり、2m弱の土塁があり、曲輪IIとなる。 ここより北に土塁を隔てて曲輪Iがある。 また曲輪IIより東に行くと、曲輪III、IVと余り高低差はなく、 曲輪IVの南面に、この城址の見所であろう、虎口が残っている。 この虎口は外に突き出て、折れ曲がって下の横堀に下り、さらに折れ曲がって横堀に出る、 構造をしている。 この構造や竪堀から、法貴山城と類似していることから明智時代と推測されている。
完全に薮化した山であったので、帰路を失うリスクを考慮しすぎ、 丹念に見ることが出来ず残念だった。薮や木々を取っぱらえば素晴しい城址になりうる。

井内城遠景 横堀 虎口

神尾山城


亀岡市

細川高国が、神尾山城に籠る弟・柳本賢治を細川尹賢らに攻めさせたが失敗した。 また明智光秀が八上城攻めの中継地として利用したと云われる「木目の城」とのこと。 光秀時代には野々口西蔵坊が城主であったという。
金輪寺の裏手に存在する大規模な城址である。 高低差を利用した規模の大きな数段の曲輪(左端画像)が堀切(左2画像)を挟んだりして続き、 山頂部は土塁などを使って曲輪を分けている。 『新修亀岡市史』の縄張り図で云う曲輪Iの西側には、虎口が残り、その下部には、 やや痕跡が薄くなりつつも畝状竪堀がある。 曲輪IIIとIVを仕切る土塁は石塁も用いていたようだが、だいぶ崩壊してしまっていた。 この山頂部に出る手前(曲輪Vの横)には石塁が残っている(左3画像)。 どの曲輪も西側に土塁が築かれ、東側を通路としてあった。
城内はやや薮化しており(特に曲輪I)見づらい箇所もあったが、 全体的に金輪寺からは迷うことなく道が続いており、見易かった。

堀切 石塁 切岸 曲輪I横曲輪

太田山城


亀岡市【最寄り駅】JR山陰本線並河駅

天正年間(1573〜1592)に使用されたと伝わる。
麓から登って行くと、堀切に出て、土塁がある。 城域はさほどは広くはなく、すぐに土塁(左画像)となる。 曲輪内は木々が繁茂し荒れていてよく把握できなかった。 土塁と土塁の間の通路の北側には枡形虎口(右画像)が残る。

土塁 枡形虎口

太田城址である松井八幡宮の裏手からの道を登ると、 ノミで割った石の跡があった(左端画像)。 さらに登ると、野面積みの石塁が多々残っている。 亀山城の築城の際にもここから石を持っていったと云うことだが、 それと関係があるのか。 寺院跡でもなさそうであるし、 湖南市にある三雲城を彷彿とさせる。 太田山城では全く石塁を使ってないことを考慮すると関係ない、 後世の物のか。

石割

太田城


亀岡市【最寄り駅】JR山陰本線並河駅

松井氏の居城。
現在松井八幡宮がある境内が城址。 本殿がある所が最高地点で本丸跡で東西に曲輪が残る。 本丸の北側には浅い堀切があって曲輪があり、 その北側に現在通路となっている堀切がある。 この堀切については『新修亀岡市史』では、 他も含めて改変の可能性も示唆している。



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