六角氏の旗頭、軍代を勤めた、三雲氏の居城。
六角高頼が三雲典膳に長享2年(1487)築城させた。
元亀元年(1570)佐久間信盛に攻められ落城した。
天正13年(1575)中村一氏が水口に岡山城を築城する際に、
石垣を持ち去ったという。六角氏が度々逃げ込む城であった。
親切な標識があり迷うことはない。
青少年自然道場の手前から曲がって登ると、入口がある。
この道の間にある山肌にも石塁が残っている。
城址入口から登り出すと、石塁が何段も残っている(左端画像)。
また城址には、井戸の跡や巨石を用いた枡形虎口(中央画像)が残っている。
ここを登り切って、しばらく行くと、搦め手だろうか、土塁があり(右端画像)、虎口となり、
堀切となっている。
もっと見事な石塁があったようだが、気付かなかった。
正直どこが本丸なのかよく分らなかった。
規模もどのくらいあるのか、さっぱり掴めなかった。
左端画像の石塁は近代採石場による石塁だということである。
紛らわしいものを作らんでも良いのに。
鶴見氏もしくは富永氏が築城したというが定かでない。
小川氏または多羅尾氏が城主であったようで、
天正10年(1582)の本能寺の変で堺にいた徳川家康の神君伊賀越えの際、
多羅尾氏を頼り、この城に宿泊したと考えられている。
やや薮化していたが、礎石が残っている。
この本丸群から中の城に下って行くと、
土塁と堀切があり、さらに下って行くと、
深い堀切があり(左3画像)、さらに堀切2本あり、
そこから尾根筋に曲輪が5〜6段くらい残っていた(右端画像)。
ここが中の城かと思っていたが、そうではなかった。
だが、小川城のための防御でもあろうし、
中の城とも近いので帰属は難しい。
尾根筋の斜面を削って、平坦地を築いたと思われる構造をしている。
清光寺の裏手から標識がある。 すぐに荒れ放題の竹薮となるが、そこを越えて行くと、 数段の曲輪が残っている。 通路兼堀(左端画像)が南から本丸?を左に周回して、高度を上げて、 内枡形虎口(中央画像)に行き当たる。 薮化していて、土塁と枡形がはっきりしないのが残念。 ここが本丸だろうか、薮化しきっていて、それ以上行く気になれなかった。
浅井氏方の田屋氏の居城。
元亀年間(1570〜1572)の朝倉・浅井氏と織田氏の戦いの際に、
改修を受けたと想像される。
西森からつづら折りの道を登って行くと、
竪堀が現れ、枡形虎口に入り、城内となる。
見晴しの良い、現在屋根付きのベンチのある辺りの左側には、櫓台らしき跡がある。
この曲輪はかなり薮っていて遺構がはっきりしない。
この東側にも通路を挟んで曲輪がある。
さらに北側には平坦地があり、土橋でさらに北にある本丸へと繋っている。
本丸は、内枡形(右端画像)で周囲を土塁(左端画像)で囲んでいる。
本丸の東側を通路が走り、本丸裏側に出ると、
竪堀(中央画像)や堀切が残っている。
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