近江11



三雲城小川城中の城西の城田屋城

三雲城


湖南市(旧甲西町)【最寄り駅】JR草津線三雲駅

六角氏の旗頭、軍代を勤めた、三雲氏の居城。 六角高頼が三雲典膳に長享2年(1487)築城させた。 元亀元年(1570)佐久間信盛に攻められ落城した。 天正13年(1575)中村一氏が水口に岡山城を築城する際に、 石垣を持ち去ったという。六角氏が度々逃げ込む城であった。
親切な標識があり迷うことはない。 青少年自然道場の手前から曲がって登ると、入口がある。 この道の間にある山肌にも石塁が残っている。 城址入口から登り出すと、石塁が何段も残っている(左端画像)。 また城址には、井戸の跡や巨石を用いた枡形虎口(中央画像)が残っている。 ここを登り切って、しばらく行くと、搦め手だろうか、土塁があり(右端画像)、虎口となり、 堀切となっている。 もっと見事な石塁があったようだが、気付かなかった。
正直どこが本丸なのかよく分らなかった。 規模もどのくらいあるのか、さっぱり掴めなかった。
左端画像の石塁は近代採石場による石塁だということである。 紛らわしいものを作らんでも良いのに。

石塁 枡形虎口 土塁

小川城


甲賀市(旧信楽町)【最寄り駅】信楽高原鐵道信楽駅

鶴見氏もしくは富永氏が築城したというが定かでない。 小川氏または多羅尾氏が城主であったようで、 天正10年(1582)の本能寺の変で堺にいた徳川家康の神君伊賀越えの際、 多羅尾氏を頼り、この城に宿泊したと考えられている。
やや薮化していたが、礎石が残っている。 この本丸群から中の城に下って行くと、 土塁と堀切があり、さらに下って行くと、 深い堀切があり(左3画像)、さらに堀切2本あり、 そこから尾根筋に曲輪が5〜6段くらい残っていた(右端画像)。 ここが中の城かと思っていたが、そうではなかった。 だが、小川城のための防御でもあろうし、 中の城とも近いので帰属は難しい。

本丸 堀切1 堀切2 切岸

中の城


甲賀市(旧信楽町)【最寄り駅】信楽高原鐵道信楽駅

尾根筋の斜面を削って、平坦地を築いたと思われる構造をしている。

土塁? 本丸?

西の城


甲賀市(旧信楽町)【最寄り駅】信楽高原鐵道信楽駅

清光寺の裏手から標識がある。 すぐに荒れ放題の竹薮となるが、そこを越えて行くと、 数段の曲輪が残っている。 通路兼堀(左端画像)が南から本丸?を左に周回して、高度を上げて、 内枡形虎口(中央画像)に行き当たる。 薮化していて、土塁と枡形がはっきりしないのが残念。 ここが本丸だろうか、薮化しきっていて、それ以上行く気になれなかった。

堀 虎口 堀切

田屋城

N35.27'55, E136.1'12
高島市(旧マキノ町)【最寄り駅】JR湖西線マキノ駅

浅井氏方の田屋氏の居城。 元亀年間(1570〜1572)の朝倉・浅井氏と織田氏の戦いの際に、 改修を受けたと想像される。
西森からつづら折りの道を登って行くと、 竪堀が現れ、枡形虎口に入り、城内となる。 見晴しの良い、現在屋根付きのベンチのある辺りの左側には、櫓台らしき跡がある。 この曲輪はかなり薮っていて遺構がはっきりしない。 この東側にも通路を挟んで曲輪がある。 さらに北側には平坦地があり、土橋でさらに北にある本丸へと繋っている。 本丸は、内枡形(右端画像)で周囲を土塁(左端画像)で囲んでいる。 本丸の東側を通路が走り、本丸裏側に出ると、 竪堀(中央画像)や堀切が残っている。

本丸土塁 竪堀 本丸枡形

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