永和2年(天授2年、1376)九州探題の今川了俊が肥後に侵入したのを、
17代武朝はここで迎え撃ち勝利を収めた。菊池18外城の1つ。
城主はおらず菊池氏直属の城だったらしい。
(大系・現地説明板より)
現在、台地区の丘陵上の古墳の横に説明板があるものの、
遺構は特になく、城址の正確な場所の確定はできていない。
水次氏の居城。菊池18外城の1つ。
丘陵部突端にある古墳の上に城址碑が立っている。
阿蘇三社宮の敷地となっているが、応永2年(1417)18代菊池兼朝の勧請によるものだという。
菊池氏初代則隆の子、西郷政隆が本拠とした城館であった。菊池18外城の1つ。(現地説明板より)
遺構は、石碑の裏側の竹林が土塁くらいで、井戸跡には気付かなかった。
西郷隆盛は32代目に当たるという。徳富蘇峰の筆による顕彰碑が立っている。
菊池氏8代能隆の子隆時が加恵氏を名乗り築城した。
食料の確保、水運の面で重要視された土地だったと推測されている。
現在の五輪塔や板碑が立つ位置より東側に小高い丘が以前はあったらしいが、
昭和40年代に土地改良事業で削られ、五輪塔と板碑は現地に移ったという。(現地説明板より)
現地説明板の通り、五輪塔と板碑以外何もない。加恵の集落はここより南西にある。
打越城主林原氏の分家である、蛇塚氏の居城であった。
7世紀ころの前方後円墳の上に石碑と祠がある。(現地説明板より)
尚、民家の敷地内であるので、一声掛けて入りたい。
七城温泉センターの東側にあり、菊池川の左岸に位置する。
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