木原城の北側に下った果樹園に位置する。 北への眺望に優れ、南側は大きな堀切がある(最左画像)。 主郭には展望台があり、腰郭がある。
文明年間(1469〜87)名和武顕が居城したという。
文亀4年(1504)名和顕忠が古麓から移り住んだとも伝わる。
また、矢橋宗親が居城したとか、源為朝の築城説もある。(大系より)
木原不動尊奥の院の裏山で、整備されてはいない。
明確な堀切があり(最左画像)、郭は竹林となっている。その西側には堀切と土橋が組み合わさったような、
遺構か分からない、人工的な構造物が残っている(中央画像)。
平安時代末期に人吉荘が平頼盛の采地となり、代官矢瀬主馬助が人吉城に在城した。
しかし、建久9年(1198)相良長頼が下向し、これを滅ぼし、入城した。
当初は、上球磨、島津氏に対する東向きで、
上原城・中城・下原城との間に空堀を掘り、原城門を設け、今の本丸の位置に城主の居所があった。
天正末期から豊後から石工を招き、文禄元年(1592)長毎が朝鮮出兵で一時中断、
慶長5年(1600)にも関ヶ原の戦いで延期となり、
同12年(1607)に再会された。明治維新まで相良氏が続いた。(大系より)
胸川の球磨川に合流する辺りに大手門があった(上段左端画像)。
ここを入ると、武家屋敷のあったところで、人吉城歴史館がある。
歴史館内部には、相良(犬童)清兵衛屋敷跡の井戸のある地下室が保存されている(上段左2画像)。
相良護国神社が城主の館跡で、その背後から城址へ登ると、三の丸となる。
二の丸には枡形を抜けて入る(上段左4画像)。
そこから登ると本丸であるが、天守は作られず、かつては護摩堂があった(上段右端画像)。
二の丸を北へ下ると、御下門で、本丸や二の丸へ登るための唯一の出入り口だったという(中段左端画像)。
御下門の西側には、はね出しという工法で防火のために作られた西洋式の石垣が残る(中段中央画像)。
一方、二の丸と愛宕社跡の曲輪の間には堀切が残っている(中段最右画像)。
矢瀬主馬助の居城であったという。
中原城は現在水道施設となっており中へ入られない。
上原城は藪っているものの、西の丸との間に深い堀切があり(最左画像)、
さらに西の丸の西にも尾根との間に深い堀切がある(左2画像)。
一方、中原城と上原城の間の原城門の東側には、空堀があり(左4画像)、
北側には住宅地と化した、下原城、南側には、原城外廻りの郭が残る。
下原城と原城外廻りの間の谷を下ると、竹藪の中に、畝上竪堀が残っている(右端画像)。
永吉庄を支配していた平河氏の居城で、寛喜年間(1229〜32)平河右衛門三郎義高が相良氏に討たれ、
窪田氏が城主となり、窪田氏没落後は犬童氏が城代となり、その後廃城となった。(現地木碑より)
建武5年(延元3,1338)の相良文書に相良定頼は南朝方と戦い、木枝城(岩城)に追い込んだ。
暦応3年(興国元,1340)には北朝方の城となっている。(大系より)
球磨川の北側に位置し、東側は崖となって屹立している。
南北に郭は分かれて、北側は木本神社境内となっている。
土塁らしい跡が残っているが、遺構かどうかは定かでない(左端画像)。
堀状凹地の反対側の南側は竹林となっており、
切岸らしい跡が良く残っている(左2画像)。
窪田越後(長善)の墓のある郭との間には、堀切らしい跡が残る(左3,4画像)。
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