肥後6



木原小城木原城人吉城原城岩城(木上城)

木原小城

熊本市(旧富合町)【最寄り駅】JR鹿児島本線・三角線宇土駅

木原城の北側に下った果樹園に位置する。 北への眺望に優れ、南側は大きな堀切がある(最左画像)。 主郭には展望台があり、腰郭がある。


木原城

熊本市(旧富合町)【最寄り駅】JR鹿児島本線・三角線宇土駅

文明年間(1469〜87)名和武顕が居城したという。 文亀4年(1504)名和顕忠が古麓から移り住んだとも伝わる。 また、矢橋宗親が居城したとか、源為朝の築城説もある。(大系より)
木原不動尊奥の院の裏山で、整備されてはいない。 明確な堀切があり(最左画像)、郭は竹林となっている。その西側には堀切と土橋が組み合わさったような、 遺構か分からない、人工的な構造物が残っている(中央画像)。


人吉城

人吉市【最寄り駅】JR肥薩線人吉駅・くま川鉄道湯前線人吉温泉駅

平安時代末期に人吉荘が平頼盛の采地となり、代官矢瀬主馬助が人吉城に在城した。 しかし、建久9年(1198)相良長頼が下向し、これを滅ぼし、入城した。 当初は、上球磨、島津氏に対する東向きで、 上原城・中城・下原城との間に空堀を掘り、原城門を設け、今の本丸の位置に城主の居所があった。 天正末期から豊後から石工を招き、文禄元年(1592)長毎が朝鮮出兵で一時中断、 慶長5年(1600)にも関ヶ原の戦いで延期となり、 同12年(1607)に再会された。明治維新まで相良氏が続いた。(大系より)
胸川の球磨川に合流する辺りに大手門があった(上段左端画像)。 ここを入ると、武家屋敷のあったところで、人吉城歴史館がある。 歴史館内部には、相良(犬童)清兵衛屋敷跡の井戸のある地下室が保存されている(上段左2画像)。 相良護国神社が城主の館跡で、その背後から城址へ登ると、三の丸となる。 二の丸には枡形を抜けて入る(上段左4画像)。 そこから登ると本丸であるが、天守は作られず、かつては護摩堂があった(上段右端画像)。 二の丸を北へ下ると、御下門で、本丸や二の丸へ登るための唯一の出入り口だったという(中段左端画像)。 御下門の西側には、はね出しという工法で防火のために作られた西洋式の石垣が残る(中段中央画像)。 一方、二の丸と愛宕社跡の曲輪の間には堀切が残っている(中段最右画像)。




原城

人吉市【最寄り駅】JR肥薩線人吉駅・くま川鉄道湯前線人吉温泉駅

矢瀬主馬助の居城であったという。
中原城は現在水道施設となっており中へ入られない。 上原城は藪っているものの、西の丸との間に深い堀切があり(最左画像)、 さらに西の丸の西にも尾根との間に深い堀切がある(左2画像)。 一方、中原城と上原城の間の原城門の東側には、空堀があり(左4画像)、 北側には住宅地と化した、下原城、南側には、原城外廻りの郭が残る。 下原城と原城外廻りの間の谷を下ると、竹藪の中に、畝上竪堀が残っている(右端画像)。


岩城(木上城)

錦町【最寄り駅】くま川鉄道湯前線一武駅

永吉庄を支配していた平河氏の居城で、寛喜年間(1229〜32)平河右衛門三郎義高が相良氏に討たれ、 窪田氏が城主となり、窪田氏没落後は犬童氏が城代となり、その後廃城となった。(現地木碑より) 建武5年(延元3,1338)の相良文書に相良定頼は南朝方と戦い、木枝城(岩城)に追い込んだ。 暦応3年(興国元,1340)には北朝方の城となっている。(大系より)
球磨川の北側に位置し、東側は崖となって屹立している。 南北に郭は分かれて、北側は木本神社境内となっている。 土塁らしい跡が残っているが、遺構かどうかは定かでない(左端画像)。 堀状凹地の反対側の南側は竹林となっており、 切岸らしい跡が良く残っている(左2画像)。 窪田越後(長善)の墓のある郭との間には、堀切らしい跡が残る(左3,4画像)。




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