乙城と比べ規模が小さいことから、乙城の出城または詰めの城と推測されているが、
こちらの方が麓との結び対が強いという点で矛盾もあり、推測の域を超えることはないようだ。
『菊水町文化財調査報告 第15集 牧野城跡・小乙城跡』より
主郭と周囲に帯郭があり、切岸が残る。土塁などの明確な遺構はない。
乙城へ北西へ延びる尾根を下れば、やや倒木や藪で歩きにくいが短距離で到達できる。
「牧野城跡・小乙城跡」によれば堀切と記載あるがかなり痕跡は薄れている。
南東部は果樹園になっている。
天正16年(1588)内古閑鎮房が在城しており、3月1日に柳川城に至り、安国寺恵瓊に一揆に加担してないと訴えようとしたが誅殺された。
その後、弟の鎮照が在城したので、9月26日に古武城らに討たせた。
『菊水町文化財調査報告 第15集 牧野城跡・小乙城跡』より
民家横からイノシシ用のわなの柵を通り過ぎて入れるが、倒竹が酷く、前進むのも苦労する。
郭跡らしい、削平地や切岸は残っているが、とにかく倒竹がが酷い。
寝ていたイノシシを起こしてしまったのか物凄い勢いで山を下って行くと音がすぐ近くで聞こえぞっとした。
用木氏が城主だった。
『菊水町文化財調査報告 第14集 焼米城跡・萩原城跡・用木城跡』より
標識のある農園の横から登っていくと、小さな郭らしい跡が切岸を伴って残っている。
主郭の切岸は良く残っており、南東側に石塁が残っているがこれは当時の物か怪しい。
北西側に別の郭があり、帯郭によって分断されている。
天正10年(1582)12月11日島津氏家臣新納武蔵守忠元・伊集院美作守久宣により1日で落城し、
城主小森田氏は討ち取られた。その後、日平城は番衆を置くにふさわしくないという理由で山北へ陣を移し放棄された。
『和水町文化財調査報告 第8集 日平城跡』より
長い林道を歩き、標識から入る。遺構らしい小山があり、切岸を越えていくと、
横掘があり、階段を登ると毘沙門天のある主郭に至る。北側には最高地点があり、
南側には堀切を挟んで郭があり、井戸(貯水池)が残る。
その南側へ下ると堀切があり、さらに尾根伝いに下れそうだったが、時間の制約もあり
ここまで。一方、城山と呼ばれる、北側のピークを横掘を下って目指したが、藪も酷く、
下って登るには時間もきついで残念ながら割愛した。横へトラバースすると巨大な竪掘があった。
林道へ戻る途中に、東尾根郭群を下り、堀切までは確認できた。
戦国時代にこの辺り周辺を治めた内田氏の城と推定される。
天正10年(1582)龍造寺領となり、成富信種の所領となっている。
『和水町文化財調査報告 第1集 立石城跡・内田宮山城跡』より
赤子宮の裏手の山に残るが、東側は九州縦貫道の建設で削り取られた。
主郭直下の郭に、かつて北東側にあったという石塔が残っており、
郭の西側に堀切と土塁の跡が残る。主郭は狭い。
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